雲隠れのロビン
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それからはめまぐるしい忙しさになった。
イグニスは後方支援にまわった。「頭が黙ればこっちのもんだ」とファゴとファルを連れて戦争当事国のトップおよび国境警備をことごとく眠らせに出かけていき、その隙にロビンが目眩ましをかける段取りになった。
隣接するのは目が覚めたら敵国が消えている、という寸法だ。
はじめこそ驚いたが、ロビンはその案を気に入った。あとになって偉い人たちが慌てふためくさまを想像するとちょっと愉快になる。
自分にできることがあるというだけで、こんなにも気が晴れて充実するものだとは。
「他の魔法使いに邪魔されるってことはないんですか?」
ふと湧いた疑問を口に出すと、イグニスは一瞬空を見つめた。
「そういうこともあるか」
「えっ、考えてなかったの」
「俺に向かってこようなんて度胸のあるやつはこの数世紀いなかったからな。まあ、そろそろ知名度も落ちてきたころか」
驚きを通り越して呆れを隠せないロビンをよそにランタンを手に取ると、イグニスは暖炉わきのスコップで〈火の手〉をすくい、ぐいぐいと押し込んだ。詰め込まれたほうもはじめは抵抗していたのだが、とっておきの黄金胡桃と他にも木の実をいくつか一緒に放り込むと、しばしの沈黙ののちむしゃむしゃやりはじめ、その隙に扉をぱちりと閉じてしまった。
「ずいぶん安い……」
「しっ」
こうして非常時の備えとして〈火の手〉も参戦し、作戦は決行された。
ロビンはありとあらゆる都市、町、ひなびた村に至るまで、頭に叩き込んだ地理情報と旅行鞄の力をたよりに次々と隠していった。
森で覆い、草原をひきのばし、岩肌に擬態させる。足を踏み入れた者は、どこまで行っても街にたどり着けず、やがて亡霊に取り囲まれて逃げ帰る。
もちろん、亡霊なんていない。事情を知らずに声をかけてくる住民の姿がそう見えるだけだ。
途中で嫌な場面にも出くわした。
子を虐げる親、規律の遵守を謳っておこなわれる折檻、略奪、陵辱、人の体と尊厳を損なう行為は、どこにでもあった。見るたび心が痛み、また腸が煮えくり返る思いだったが憎悪は必死で収めた。
借り物の炎と憎悪はひどく近いところにあり、またおそらくは性質を同じくしていて、ともすれば勝手に発火してしまいかねない。その矛先が人間に向けば、一瞬で消し炭にしてしまうほどの力だと直観的に理解していて、だからこそロビンはその制御に努めた。
死んでしまったら、何も取り返しがつかない。一時の感情に身を任せるべきではなかった。代わりに、望む者には逃げ道を示し、できるかぎり痕跡を隠して相手の目を撹乱し、逃亡をたすけた。
かけた言葉を信じてもらえずに、また恐怖のあまり立ち上がる力さえない者もあり、そういうときはただ立ち去るしかなかった。
せめて、逃してやれた人だけでも、その先で幸せになってくれたらと願う。
生きていれば、どうにでもやり直せるのだ。ロビンがそうであるように。
ロビンのこだわりからいくらか滞ることはあったが、計画は概ね順調にすすんだ。イグニス曰く「物を知らない小童」を数人蹴散らしたらしいが、それ以外に大きな衝突もなく、国境線からはじめた隠蔽工作は、いよいよ総仕上げに差し掛かった。
国を見下ろす霊峰の頂きに、師弟が揃う。厳寒の山頂、吹きすさぶ風は身を切るほどつめたいが、凍えるほどではない。肌にはりついた氷も、見る間に融けて流れていく。
イグニスがランタンの扉を開けた。転がり出る〈火の手〉を両手のひらで受けて、ロビンが凍りついた地面に横たえる。刹那、ジュッと激しい音をたてて蒸気が上がった。野焼きのように広がっていく炎は、一瞬で氷を融かして細かい粒に変え、まとまって霧に、雲になって陽の光を散らす。あたりは真っ白に染まった。
ロビンはひたすら術を送り込みつづけた。身体を巡る円環は長い時間をかけて雲とともに広がり、国を覆い隠す守護となった。ロビンの身体は大きな循環の通過点、流れ込むものを無心に変換して送り出していく。
やがてそれは雨となって降り注ぎ、力の流れがふっと途切れた。
よろめくロビンの身体を、イグニスが支える。
「よくやった」
今にも閉じそうな目で、ロビンが微笑みかえした。
しかし、ロビンの身体は少しずつ冷たくなっていく。
長いこと開きっぱなしにしていた回路はなかなか閉じてくれず、ロビンの生命力すら吸い出しはじめていた。だんだん青くなる顔色に肝を冷やしたイグニスはあわててロビンを寝かせると彼の鼻をつまみ、頬をふくらませて炎を吹き込んだ。
(押し返される)
大きく息をためて、もう一度。
渾身のひと息でロビンの身体のすみずみを駆け巡ったイグニスの炎は、その血をあたため、円環を元通りに修復した。息を吹き返したロビンが咳き込んだ拍子にはじき出されてきたところを、イグニスは片手で受け止める。
「ずいぶん大きくなったもんだ」
すっかり疲れ切ってすこやかな寝息をたてるロビンを見下ろしながら、イグニスはひとりごちる。さすがに成長したロビンを肩に担いで帰るわけにはいかず、ぐったりと重たいその身体を背負って、時折ゆすりあげながらのんびりと山を下った。