最強のふたり
4
二日酔いというものを初めて経験したキースは、そのままリチャード家でまる二日世話になり、二度とあんなに馬鹿な飲み方はしない、と固く心に誓った。
どうやらあちこちで迷惑をかけたらしい、とアリソンに聞かされたので、回復して早々、まずはクロエの元へ向かうことにした。
ファインズベーカリーは石造りの邸宅を改装したつくりで、花の咲き乱れる前庭では客が思い思いにくつろいでいた。
店の前についたきり、訪ねあぐねてずいぶん時間が経ってしまった。夏至祭のときに未知の自分をさらして箍を外した手前、どんな調子で切り出したものかわからない。さらに、酔っ払ったときの記憶も断片的にのこっているのでかえって決まりが悪かった。しかし、あまり店先に長居すると不審だし、ここに来てからずっと人の視線を気にしているので、キースの神経はずいぶんすり減っていた。
「おい」
そんな状態で呼びかけられて、キースは心底から縮み上がった。
地を這うような低音に振り向くと、見覚えのある大柄な男が通りに立っていた。何人か連れているのは取り巻きか。身なりこそまともだがいずれも着崩しており、どうも人相が悪い。
ダンと呼ばれていた、あの男である。
「なにか」
チンピラ、厄介、めんどくさい、クロエたちの言葉が脳裏をよぎる。
こういうとき、怯えを見せたらいけないとどこかで聞いた。キースは努めて平静を装ったが、一言発するのが精一杯だ。
「あんた、さっきからここで何してんだ」
やっぱりあやしまれた。こればかりは自分の意気地のなさを悔いるほかない。
「この家に用事があるんだが、事情があって入りづらくてな」
「誰に用なんだ」
「なんでそんなこと言わなきゃならない」
居丈高な調子に少々カチンと来て、キースは思わず聞き返す。
「そう言う君は、この家の人なのか?」
「似たようなもんだ」
「どういうことだ?」
「家が隣でな。家族同然で育ってきた」
「そうだぞ、ダンは隣の仕立て屋の息子だ」
横から取り巻きが口を挟むと、ダンは慌ててその肩をつかんだ。
「余計なこと言うな」
ふむ、とキースが振り返ると、たしかにそこに仕立て屋がある。淡い色合いにレースとフリルがディスプレイされた、立派な店構えだ。本人のイメージとはずいぶんかけ離れているが。
返答に詰まったキースは、「そうか」とだけ返した。他になんとも言い難い。ただ、誰しも家に思うところはあるよなあ、と親近感は湧いた。
「くそ、馬鹿にしやがって」
「馬鹿にはしていない。似合わないとは思ったが」
「正直に言やいいと思うなよ」
そうして今しもダンがキースにつかみかかろうとした瞬間、
「そこまで!」
と威厳に満ちた声が響いた。
「じいちゃん」
小柄で背筋のまっすぐのびた老人がダンに向かってつかつかと歩み寄り、彼の襟首をひっつかんだ。
「ダニエル、誰彼かまわず吠えるんじゃないと何度言ったらわかる」
「違うんだよ、こいつずっと店の前をうろついてるから……」
「それだけで噛み付く馬鹿があるか、はじめの一言は『おらおら』じゃなくて『何かご用ですか』だろうが」
そのままずるずる隣の家にひきずって、小鳥のオブジェが揺れるドアの向こうへ押し込む。老人が呼ばわると母親らしき人物が顔を出して、ダンの上に雷を落とした。
ふと取り巻きの様子をうかがうと、彼らはすっかり慣れた様子でそそくさと解散していく。
「兄ちゃん、悪かったな」
「ああ……」
一体何だったのか。とっさに動けず立ち尽くしている間に、さきほどの老人が戻ってきた。
「いやあ、失礼しました。あれもうちの子どもみたいなもので」
「ということは、あなたは」
「パン屋の隠居です」
そう言って手を差し出す。握り返したそれは、使い込まれた職人の手だった。
「先生から話は聞いてますよ」
通されたのは店の二階、そこでキースは冷たい露茶に口をつけた。
老人はロランといい、クロエの祖父でベーカリーの創業者であった。クロエは配達で留守にしているので、帰りを待つあいだ話したいことがあるという。
「話というのは、どこまで」
「いやあ、たぶんあの人が考えてることはだいたい聞いたんじゃないかね。教え子の根性をひとつ叩き直してやらにゃいかんとか、うちのクロエを嫁にやったらどうかとか」
思わず手元が狂って、茶杯をひっくり返しそうになった。
ふたつめの話はキースも初耳である。ロランは「おや」と眉を上げてキースが落ち着くのを待った。
「聞いてない?」
「初めて聞きました」
「ははあ」
なにか思うところがあるようで、彼は短く切りそろえた顎髭をさする。
「しかし、会ってみたらまんざらでもないと」
それはどうだろう。キースの視線は宙をさまよう。少なくとも、貴族令嬢との縁談よりはよほど気が楽、ということは確かだ。なにしろ夏至祭の一日だけで、いろいろと暴かれてしまっている。
たっぷり時間をおいてから、「はい」と答えたキースに、ロランは眉間の皺を深くした。
「そんな調子では孫娘はやれないよ」
キースははっと顔を上げた。間を空けたこと自体、ずいぶん失礼だった。とにかく謝ろうと口を開いた瞬間、ロランは言葉を重ねた。
「頑固じじいのわがままで言ってるんじゃない。そういう思いもあるにはあるが、そもそもあの子は嫁に向いてない」
キースにはよく意味がわからなかった。
「半日一緒にいたならわかるだろうが、あの子は根っから商売に向いてるんだよ。なにしろよちよち歩きの頃から儂や両親、兄貴たちについてまわって、お手伝いを遊び代わりに育ってきたからな。すっかり身についとる。あんまり仕事ばっかりしたがるもんだから、これはいかんと行儀作法の先生のところへも出したが、そこでついでに馬の乗り方まで覚えて帰ってきた。『仕事に活かせる』、と言ってな。ありがたいことに、お客さんみんなに可愛がってもらっているから、いっそ婿をとって家を継がせたらどうだという話まで出ているほどなんだよ」
クロエには兄が二人いるが、それぞれに独立させればいい、長男のほうはすでにその準備ができているという。
「そんな娘を、貴族どうしで結婚したくないから嫁にください、って言われてホイホイやれると思うかね?」
キースの浅慮などとうに見抜かれ、ものすごい皮肉が込められていた。
クロエを、結婚そのものを侮るなときつく言われている。
ぐうの音も出ない。
ロランはそのままキースの反応を待った。ここで思考を止めてはならなかった。嫁入り云々だけでなく、おそらくキースの人物そのものを試されている。
今度はちゃんと、考えることにした。言われてみてなんとなく、(クロエだったら大丈夫かもしれない)とは思ったが、その理由はなんだろう?
目の前の老人は茶をすすりつつ、こちらの様子をうかがっている。
キースは、夏至祭でのやりとりをひとつずつ思い返した。クロエはキースに、たくさんのものを見せてくれて、教えてくれて、それに。
「僕はきっと、力が欲しいんです」
考え考え、口を開いた。
「貴族は嫌いです。僕は貴族の集まりにはほとんど出ませんが、大したこともできないのに、家格や財産を争って、くだらないことで偉そうにしているやつらは学舎にもたくさんいました。こんなやつらとずっと付き合っていかなきゃならないなんて、うんざりだと思った。自分がその一員だということは、もっと嫌だった」
これではただの愚痴だ。しかし向かいの老人は黙って耳を傾けている。キースは先を続けることにした。
「そのくせ、ただ嫌がっているだけで、何もしなかった。父や貴族社会に反発するだけして、僕だけが別枠だと思っていたんです。夏至祭のときにたくさんの人と会って、よくわかりました。何の力もないのに、偉そうにしているのは、僕も同じだと」
己の情けない部分を認めるのは、やはり苦しい。
「クロエは、僕らの番でやり直せると言ってくれました。あなたは一緒に考えようとしているし、クロエやみんなが力を貸してくれるから大丈夫だと」
自己嫌悪であまりに気分がふさいでいたからわからなかった。あの言葉がどれだけ嬉しかったか。
「僕はその力が欲しいんです。そうしたら、何もできない自分ではなくなるんじゃないかと、たぶん、期待している」
結局、自分のためだ。話してみてそう感じた。どう思われただろうと思うと、茶杯の底ばかり見つめてしまう。
「なるほど、思っていたよりだいぶましな話が聞けた」
笑い含みでそう言われて、キースは思わず顔を上げた。ロランの目がすこし優しくなっている。
「クロエは、自分が必要とされるところならどこだって飛んでいくような子だからね。うちだって必要としているし、身内の欲目を差し引いても、たぶん他のところでも引き合いがあるだろう。だからまあ、あとは本人次第なんだが」
よっこらしょ、と立ち上がる。
「自信のない領主を支える、というのもなかなかやりがいがありそうだな。儂も、まだ生きていたら力になろう」
もう一杯どうだね、と手を出されて、キースはありがたく茶杯を預けた。
「おじいちゃん、何話してたの?」
帰ってきたクロエは、なぜか祖父とキースがまったりお茶しているのを見て仰天した。
「ダンのおばさんには謝られるし、お客さんって聞いてきたらあなたがいるし、今日は一体なんなの」
「お前に会いに来たそうだよ」
「なんで」
間髪入れずに突っ込むクロエをくっくっと笑いながら、ロランは席を外した。
「まあ、あとは若いもんでごゆっくり……」
意味深に去っていく祖父を気味悪そうに見送って、クロエは向かいに座る。
「この間、大丈夫だった?」
「ああ、まさにその話で来たんだ。だいぶ迷惑をかけてしまったようだから」
それを聞いて、クロエは目を丸くした。
「あんなの迷惑のうちに入らないわ。むしろ、無茶させたのは私たちだし、みんな心配してたのよ」
みんな、というのは仲間内の他の六人のことだ。いずれそちらにも行かねばなるまいと思っていたのでそのことを伝えると、クロエはあらためて
「その必要はないとおもうわ」
と言った。
「あなたは初めてでしょうけど、あんなの日常茶飯事よ。みんな色々やってるから、お互い様よ。気にしなくていいわ」
それとも、とクロエは顔の前でてのひらを合わせる。
「せっかくだから遊びに行ってみましょうか。全員、職人やお店の家の子だから、いろんな話も聞けると思うし」
「それはいいな。ついでにこの間の……」
「それはいいから」
こうして、キースはしばらくクロエの仕事にくっついていくことになった。
クロエは外回りの仕事ついでに、友人たちのところまでキースを伴っていった。
普段は家業を手伝っている彼らは、キースの訪問を喜びつつ「なんで正体を言ってくれなかったのか」とそれぞれに文句を言ってきた。そのたびに、クロエが言い返す。
「だって、先に言ったら絶対あんなに仲良くできなかったでしょう」
これには誰も反論できなかった。
鍛冶場や窯、布団を打つさまなどを見学し、ときに並んで作業をさせてもらいながら、キースはあらゆることを見聞きした。季節はちょうど麦の刈り入れ時期で、金色に波打つ景色を麦秋と呼ぶことも教えてもらった。職人のこだわり、商売の難しさ、手際よく仕上げるためのコツ、みんな惜しげもなく教えてくれる。年長者の中にはキースをよく思わない者もいたが、そのあたりもうまくやってもらった。
そしてやはり、話題は街道の治安に戻ってくる。仕入れも出荷も、定期的に物が運べなければ安定した商売は難しい。襲われて財産を失うか、護衛を雇う費用を捻り出すか、小さい商売ほど厳しい選択を迫られているという。
「商隊を組んで、金を集めて護衛を雇ったりもしてるけど、相手の数が多いから手薄なところを突かれたら終わりだって。最近はもう、運を天に任せるしかないってみんな言ってるよ」
祭りのとき一番親身になってくれた靴屋の息子が言った。
知れば知るほど、事態の切実さが飲み込めてきた。どんなに精魂込めて仕上げた仕事も、横からかっさらわれては報われない。いずれ奪われるかもしれないと思うと身が入らなくなるのが人情で、彼らの士気はじわじわと落ちてきている。
これはできるだけ早く解決しないといけない。
やがてキースは、自分に何ができるのか考え込むようになった。
どうも要は、〈風の道〉ファリヤの風廊にありそうだ。