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​三、厄災と祝宴

 どれだけ急いでも到着は夜の八時をまわった。待ち構えていたのは誰あろう巴で、半分閉じたシャッターに背を預けて通りを睥睨している。
 うっすら漂うヤンキー感に、橘彦は声をかけるのをためらった。
「おっ」
と、躊躇しているあいだに気づかれてしまい、観念して歩み寄る。
「森本さんに呼ばれて来たんですけど、なにかあったんですか」
 その問いかけには答えずに、巴はスーツ姿の橘彦を上から下まで眺め回した。
「とりあえず大丈夫そうね」
「なにがです?」
 面食らって思わず聞き返したが、流された。
「とりあえず中入ってもらっていいすか? 話は道すがら」
 さきに入り口をくぐった巴は、橘彦を招き入れるとぴしゃりとシャッターを閉めた。

 地下への階段を下りてコミックの並ぶ棚を抜け、レトロな玉暖簾のかかった物置の入り口をくぐる。その向こうに、書架に守られるようにしてぴたりと閉ざされた鉄の扉があった。
アイボリーに塗られた、何の変哲もない扉である。なので、巴の言葉には耳を疑った。
「この先は異界だから、カバンは置いてったほうがいいかも」
「え、これが?」
「そう」
 こともなげに言ってにやりと笑う。
「現実はこんなもんすよ」
 なんとなく装飾が施された重厚な扉をイメージしていた橘彦は、ちょっとがっかりしつつビジネスバッグを書架の空きスペースに置いた。
 巴が扉の取っ手に手をかける。
 黒い入り口が、ぱっくりと口を開けた。

「とりあえずまっすぐ歩いてください」
 真っ暗闇を、巴に手を引かれて歩く。
 彼女の歩みに迷いはなく、橘彦はそれだけを信じて進んだ。握られた手首と足裏に感じる地面の感触。あとは何もわからない。ためしに手を広げてみたが、何も触れなかった。場所のわりに息苦しくないのが不思議だ。
「不安すか」
 笑いを含んだ声で訊かれて、束の間言いよどむ。
「……ですね。自分が自分じゃなくなるみたいで」
「そのうち慣れます」
 慣れるどころか平衡感覚まであやしくなってきた。身体の輪郭が溶け出していくような心地さえする。
 視覚が奪われると時間の感覚までなくなるらしい。もうずいぶん歩いたように思ったが、そうでもないかもしれない。わからないことがこんなに不安だとは思わなかった。
「あっち側にね、あ、もうこっち側か」
 歩きながら、唐突に巴が話しはじめる。
「災害が発生してて」
「災害とかあるんですか」
「あるんですよ」
 そのわりに巴の口調が軽い。そんなに大したことじゃないのかな、と予想しながら訊いてみる。
「何があったのか、聞いていいですか」
「あー、言っていいのかなこれ」
「え、そこまで言って止めないでくださいよ」
「まあ、そうね」
 すこし楽しそうなのはなぜだろう。
「いっこききたいんですけど」
「はい」
 やけに引っ張るな、と思ったが橘彦は辛抱した。
「あのあとどうすか。ちょっと気が楽になったりとか」
「ああ、そうですね。おかげさまで」
「ずっとイライラ溜まってたものがなくなったり、むしろ無、みたいな」
「そうそう、そういうかんじです」
「うわ、ははは」
 巴はいきなり笑い出した。彼女の動きにつられて、橘彦の腕もぐんと引っ張られる。
「間違いないわ」
「なにが」
「じゃあ言っちゃいますけど、災害の原因、たぶん折原さんなんすよ」
「えっ」
 そのとき、行く手にふわりと青い光が浮かんだ。

 まず目に飛び込んできたのは遥かな高さを誇る巨木、次いで眼下にひろがる広大なすり鉢状の地形。
 橘彦たちがいるのはちょうどすり鉢のふち、盆地をとりかこむ円形の丘陵の頂上だった。
 中央に位置する巨木はビルとも見紛うほどで、その幹や丘めいた根のまわりにはありとあらゆる構造物がとりつき、外側へ溢れ出すようにして街が広がっている。街路に水路、行き交う人と人でないもの、宙を舞うなにものか。時折ズゥンと地鳴りがして、そのたびに空気がびりびりと震える。
 どことなく作り物めいた光景に、橘彦は圧倒されていた。
「ちょっと、腕、うで!」
 はっとして振り返ると、巴が慌てて橘彦の腕をつかみあげる。
「葉っぱ生えちゃってるじゃん」
 え、と目を落としたそこには木の生枝があった。つるりとした樹皮にひょろひょろと伸びる小枝、その先に萌え出す緑。根本をたどると確かに自分の肩とつながっている。
 橘彦はパニックに陥り、無意味にぐるぐると回った。
「な、なにこれ」
「しっかりしてよもー」
 巴は身につけていたボディバッグから折りたたみのミラーを取り出すと、橘彦の眼前につきつける。
「はい!」
「はい」
 鏡には自分の顔が映っている。いつものただの自分の姿、腕以外は何も変わっていないことで少し落ち着きを取り戻し、呼応するようにして腕もやわらかな肌に戻った。硬くつっぱった感覚もとれて、ほっと安堵の息をつく。
「眼がいいのも考えものだね」
「特にいまは、ただでさえ形が揺らぎやすいですからね」
 そう言ったのは森本で、顔を上げると他にも大勢の人が集まってきていた。
「あっ、あいつ」
「だから本人じゃないってば」
 周囲の視線にいくらか敵意が交じっているのを敏感に感じ取った橘彦は、ほとんど無意識で巴の側に寄る。
 周囲の顔ぶれはさまざまだ。すでに銀杏堂で面識がある相手も何人かいたが、そもそも人でない者が多数を占めている。大きな鳥の翼をもつ者、獣の尾や耳をもつ者、獣そのもの、記憶にあるものよりふた回りも大きな昆虫たち、肌に鱗をまとう者、角をもつ者、瞳が縦に割れている者、横に長い者、エトセトラエトセトラ。
「巴さんから話は聞いてますか?」
 森本に問われて、橘彦は首を傾げる。
「僕が諸悪の根源……?」
「ああやっぱり。ほぼ何も説明してませんね。いいでしょう」
 特に悪びれるふうもない巴をよそに、森本の手招きに応じて一人の偉丈夫がすすみ出た。赤金色の艷やかな翼をもち、褐色の肌に精緻な織模様が施された衣装をまとった青年で、さらに橘彦が見上げるほどの大男である。
「彼はアカネと呼ばれています。ここで治安を護る組織の長をしていて、よく協力してもらっている。それと、この人が今回の事情にもっとも詳しい」
「初めてお目にかかります。アカネです」
 アカネはその巨躯から想像しがたい優雅さで腰を折った。
「は、はじめまして」
 ふむ、と値踏みするように見つめられて、橘彦は追い詰められた草食動物の気分を味わった。相手はどう見ても猛禽の類である。
「順を追って話しましょう」
 鉤爪のある手で器用に手帳をひらくと、アカネはその深く落ち着いた声できわめて事務的に状況を説明した。
「時空標準時で五日前、境界に未確認の扉が開きました。ほとんど裂け目と言っていいレベルの一時的なもので即時修復しましたが、越境侵入物の痕跡があったので我々はこれを警戒、各地の人員を動かして侵入物の捜索にあたりました。
 同時期、各分岐世界線で爆発とみられる衝撃波を感知、現場に急行したところ侵入物との関連が疑われたため、警戒レベルを引き上げて捜索を続行。そののち、三日前に侵入物の捕捉に成功したものの確保には至らず。現在、影に憑物を仕掛けているため位置情報は把握できています。目撃者の話によると侵入物は人型。越境耐性の強さから、実在する人物の分霊と予測」
 そこまで淀みなく読み上げると、アカネは橘彦のほうを見てぱたんと手帳を閉じた。
「で、その人型分霊の顔があなたそっくりだったという次第です」
「そういうわけで」
 口を開けたまま固まっている橘彦の肩を、森本がポンポンと叩く。
「要約すると、折原さんの分身が暴れてるので、回収して連れ帰ってくださいというお願いです」
 それで理解した。周囲を取り囲む異界の住民たちの視線のわけ。おそらく彼らのなかには目撃者もいるのだ、迷惑を被った相手とそっくり同じ顔が目の前にいたら、それは複雑な気分だろう。
「なんでそんなことに」
「あのときでしょ」
 巴がうんざりしたように橘彦の肩に肘をのせる。
「ぶつかったじゃーん」
「え、あのとき? あれだけで?」
「通常はありえないんですがね」
 森本も嘆息する。
「その水晶眼が関係してるんでしょうね。おそらく、〈見通す力〉がそのまま〈境界を越える力〉と紐付いている。それを分身にごっそり持ってかれたんだと思いますよ」
「黒橘彦にね」
 言いながら巴はぱっと顔を輝かせた。
「もう黒彦でいいじゃん、あっちは」
「変な名前つけないでくださいよ」
「わかりやすくていい」
 アカネまで巴の案に肩入れする。あろうことか、ひゅっと息を吸い込んで周囲に公式に知らしめてしまった。
「以降は対象の呼称を〈黒彦〉と定める。現時点で見分けのつかない者は、今のうちに本体の特徴を確認しておくように」
 彼が言い終わるやいなや、周囲を取り囲んでいた者たちが一斉に寄ってきたので橘彦は縮み上がった。特に、目の数が人間と違うどころか目そのものが無い者もあり、確認のためとはいえぞろりと触れられるのはひどくおそろしかった。
 さっきまで人の肩を肘置き代わりにしていたはずの巴はさっさと退散して輪の外にいる。あらかじめ予想していたのだろう、うらめしいかぎりだ。
 困り果てた橘彦は、こそばゆさに身をよじりながら叫んだ。
「で、結局僕はどうしたらいいんですか!」
「これが終わったら一旦帰宅してください! 明日また来れますか?」
「きます! 土日は空いてます!」
「よろしくおねがいします!」
 周囲は話し声や鳴き声に羽音で大騒ぎ、森本も必死で声を張り上げる。
 異界の住民たちによる身体検査はその後、約一時間にわたって続いた。

 翌朝、橘彦は極力動きやすい服装で身支度して家を出た。
 雨天通勤用の黒いマウンテンジャケットに、登山用のショートパンツとタイツ。さすがに靴は普通のスニーカーだが、ソールが厚めでミドルカットの頑丈そうなタイプにした。あまりに使う機会がなさすぎて押し入れでぺたんこになっていたリュックは、思いつく限りの備えでパンパンだ。うち半分は、親から送りつけられた非常用持ち出し袋から抜き出した。
 まるっきり山に行く格好だが、やりすぎくらいがちょうどいい気がした。自分の中身が抜け出して異界で暴れているなんて、まさしく非常事態である。
「おや」
 まだシャッターの開ききらない銀杏堂の入り口をくぐると、レジカウンターにいた森本が顔を上げた。
「ずいぶん気合を入れてきましたね」
「えっ、おかしいですか」
「いやいや、備えあれば憂いなし」
 にこにこしているが、いくらかやつれて見える。ゆうべ、橘彦が帰ったあとも残っていたのだろう。
「なんだか大変なことになってるみたいねえ」
 売り場の隅から声をかけてきたのはふっくらした中年女性で、コピー機のような機械へ次々と本を滑らせていた。機械を通り抜けた本にはぴったりとビニールがかかっていて、なるほどこうなってたのかと橘彦は感心する。
「私はそっちの仕事は手伝えないけど、頑張ってね新人くん」
「いや奈津子さんまだ、まだだから」
「あらあ、そうなの?」
 森本があわてて止めるのをものともせず、「若い男の子がきてくれると心強いんだけど」と残念そうに見つめられて、橘彦はへらりと笑い返した。
 このままでは既成事実に絡め取られる予感がする。
 一段落したようすの森本がカウンターを抜けた。
「では、あとお願いします」
「はいはい」
 そのまま「行きましょう」と促される。橘彦は、積み上げられて陳列を待つ本の山にリュックをぶつけないよう用心しながら、森本のあとをついていった。

 例の鉄扉から真っ暗な通路を抜けて、ふたたび異界へ渡る。
 次々あきらかになる新情報に混乱した頭もひと晩でだいぶ整理されて、今度は落ち着いて周囲を見渡すことができた。
 広大な盆地のごとき地形を形作っているのは、よくよく見ると無数の本棚だ。てのひらほどの小さなものから、一戸建てほどの大きさのものまで。もしかしたらもっといろいろあるのかも知れないが、とにかく大小さまざまな書架が、複雑な相をなしてすり鉢状に並んでいる。
 そこには本が収められているばかりでなく、マンションよろしく住居や食堂がおさまっていたり、まるごと植物が乗っ取っていたり、色も形もさまざまで見飽きることがない。
 建て増し続きの違法建築のような道を、二人は下へ下へとくだっていった。目に入るすべてが、いまはやわらかな黄昏の色に染まっている。こちら側は夕方のようだった。
 大勢に取り囲まれた昨日と比べると見かける住民の数は驚くほど少なく、着実に坂を下る森本に疑問をぶつけてみると「本来、あんなに大勢出てくることはめずらしいんだよ」と返される。
「みんな元はそれぞれの分岐世界線、要は別々の物語の登場人物だからね。たくさんある本棚の奥が彼らの住まいなんだけど、黒彦襲撃でやむをえず飛び出してきて、文句をつけに行った先でアカネに捕まって、それで結局いいようにつかわれちゃってるんだよねえ」
「悪いことしましたね……」
「そうだねえ」
 早いとこ連れて帰らないとね、と森本は振り返る。
「君もこのままだと危ないし」
「僕ですか?」
「そうだよ。こちら側にあれだけ存在感のある分身がいるってことは、君自身はそうとう希薄になってるからね」
 現にほら、と頭上に垂れた蔓をよけながら続ける。
「見たものにすぐ影響されて、姿が変わってしまったでしょう」
 そう言われて、橘彦は危うく樹になりかけたことを思い出した。
「巴さんみたいな人は我が強すぎてびくともしないからいいんだけどね。こちら側に寄ってるってことは、それだけ死に近いってことだからね」
「そんな」
 森本がぴたりと足を止めて振り返った。
「亡くなった人はどこへ行くと思う?」
「て、天国?」
 突然の質問に橘彦は戸惑った。とっさの自分の答えが平凡すぎて、ちょっと耳が熱くなる。
「魂というものがあるならそうでしょうね。あるいは地獄か。ただ私達が知っている死者は、まずこちらへやってきます」
 そして広大なすり鉢の世界を眺め渡す。もう半分ほど下ってきており、水路と道路が複雑に絡み合う中央の平地のディテールが見て取れた。
「死してなお人の記憶のなかに生き続ける、というのはある一面では真実で、記憶という物語が紡がれ続ける限り、彼らはここに存在します。逆に、生きながらにしてこちら側に軸足を置いてしまうと、それが肉体に影響する。だから私達も決して長居はしませんし、書店の仕事は社会に自分たちをつなぎとめておくための、保険でもあります」
 一拍おいて声を低める。
「実はとても危うい状態なんですよ。きみは」
 その声の冷たさに、ぞわりと背筋が冷えた。橘彦が真に受けたのを確認すると、森本はふいと坂の続きを下り始める。
「まあ、このタイミングであなたがうちの店に現れたというのも、偶然じゃないのかもしれませんねえ」
 次の瞬間には、普段ののんびりした調子に戻っていた。
 さらに下へ下へ、森本は橘彦を導いていく。
 行く手に、手を振る人の姿が見えた。

 待ち合わせ場所には一人しかいなかった。巴は目を離した隙に脱走したという。
「店長、かたじけない!」
「まあ、想定の範囲内ですよ」
「デスヨネー」
 丸顔に大きめのボストンフレーム、シルバーのインナーカラーが効いたショートボブ。ポイントメイクも派手な色使いだが、彼女には不思議と似合っている。
「会ったことあるかな? 吉永仁世さん。通称ニヨさん」
「ニヨですう」
 大きなつり目は、どことなく猫を思わせる。橘彦が「はじめまして、折原です」と頭を下げると、彼女は間髪入れずに「白のほうね!」と返した。
「え、その呼び名もうそんなに有名なんですか」
「有名もなにも、黒のほうが思いっきり認知されちゃってるからね。あきらめな?」
「そうですか……」
 がっくりと肩を落とすと、仁世はにゃははと笑う。
「個人的には橘彦っていい名前だと思うけどね。縁起よさそうだし。でもいまは、身を守る意味でもシロで通しとくといいよ」
「そうですね」
 森本も同意する。
「我々も一から十まで教えてあげられるわけではないですし。名前は伏せておいたほうがいい場合もある。リスクは少ないほうがいい」
「そうそう」
「そういうもんですか」
 いくらか気を取り直したところで、間近で風が起こった。羽音とともにぶわっと砂塵が舞う。突然のことによけきれなかった橘彦は、砂をもろにかぶってしまった。
「届け物だ」
「ただいまー」
 直後、巴がひとつにまとめた黒髪をひらめかせて降り立ち、アカネは手近な高台に膝を立ててとまった。状況を察した森本が苦笑する。
「すまなかったね」
「こいつの人使いの荒さはどうにかならんのか」
 羽繕いをしながらぼやいたアカネは、どうも巴に捕まってここまで運ばされたらしい。不機嫌で強面に磨きがかかっている。
「いいじゃんついでなんだし」
「目的地と反対方向でついでなものか」
「けんかするほど仲がいいってね」
「「はあ?」」
「ほーら」
 仁世は横目でニヤついている。憤慨したアカネは、軽く会釈だけして飛びたってしまった。
「気をつけて帰れよ鳥目ー!」
「やかましい!」
「にゃはは、ラブコメかよ」
 橘彦は完全に置いてきぼりである。追い打ちをかけるように、森本が肩に手を置いてニッコリ笑った。
「では、あとはよろしくおねがいします」
「えっ」
「ふたりとも、ああ見えて頼りになりますから。たぶん」
「たぶんて」
 愕然とする橘彦を尻目に、彼はスルンと姿を消した。

「直接黒彦叩いてもいいけど、まずは社会科見学してこうか」
「異議なーし」
 暮れなずむ異界をバギーが疾走する。なんでも、仁世のクリエイターとしての素質がこちらでは実体に作用するということで、このバギーも彼女の能力により組み立てられたものだった。小舟に拡声器に双眼鏡、ざっと数えるだけでも大半が車の部品でないもので構成されており、一体なにを動力源にしているのかはまったくの不明である。
 車体が悪路にポンポン跳ねる。絶叫マシンよろしく声を上げてはしゃぐ二人に対し、橘彦は振り落とされまいとするので精一杯だ。
「あ、そこ右」
「はあい」
 巴の指示に、仁世がハンドルを切って車体を振り回す。ガランと音がして振り返ると、パーツがひとつ吹っ飛んでいくところだった。
「仁世さん、部品が!」
「だいじょぶ、ほとんど飾りだからー」
 のんびり返ってきた答えに不安しかない。橘彦は車体のフレームをことさら強く握りしめる。
 と、進行方向に目を戻して思わずうめいた。
 バギーは一路、無数の腕が蠢く暗がりのなかに突っ込んでいく。

 ぎゅっと瞑った目を開くと、血に染まったような紅い空が広がっていた。崩れかかった日本家屋にズタズタの障子、枯れ木には真っ黒な鴉がギャアギャアとひしめいている。まるで不吉さを絵に描いたような風景がそこにあった。
 バギーは時折ばきばきとなにかを砕きながら走り続け、やがてうず高く積み上がった瓦礫の前で止まった。光源が赤いせいで視界がはっきりしないが、瓦礫のまわりには大きさもまちまちな影がうろうろしている。
〈あ、巴さん……〉
 不意に脳裏に陰気な声がひびいた。バギーを降りながら巴が応える。
「何度もわるいね、調子どう?」
〈ひとまず応急処置はすみました……〉
「そりゃよかった」
 会話の内容が頭の中と耳の両方に聞こえてくる。初めての感覚に、橘彦は軽く酔いかけた。
〈元気のある者は騒ぎに乗じて出払ってしまって〉
「はは! 怨霊に元気って概念あんの?」
(怨霊?)
 どうも聞き捨てならない言葉を聞いた気がするが、ひとまず促されてバギーを降りる。地面に足をつくのにはだいぶ勇気が必要だった。
「シロちゃん、ここ何だとおもう?」
 ハンドルにもたれたまま仁世が問う。橘彦は慣れない呼び方に戸惑いながら周囲に目を凝らした。
 太陽は熟しすぎた果実のごとく赤くつぶれて、何もかもがその色に染まっている。血糊のように重たい空気に、よくよく見れば瓦礫の山には髑髏が多分にまざっていた。
 ここがどんな場所なのか、正直想像したくもない。
 ただ、溺れるほどの禍々しさのなかで、瓦礫の山の向こうからいくらか軽い気配が流れてきていた。目では見えない、肌にも感じない、風のようなもの。瓦礫の山は、その流れを遮るようにして積まれていた。
「もしかしてこれ、穴あいてるんですか?」
「ご名答! ここ、境界が貫通しちゃってるのさ」
「解決方法が物理……」
「そりゃそうだよ、窓が割れたらとりあえずテープとかで塞ぐでしょ」
「そうですね……」
 ふたたびちょっとがっかりしている橘彦を巴が小突く。
「他人事じゃないんだよ、これも黒彦の仕業なんだから」
 これが社会科見学の目的だ。
 境界に穴が開けば、見えないはずのものが見えてしまう。それはどちらの側でも同じで、黒彦襲来をきっかけに各地で相応の混乱が起きていた。
 巴は、これを見せるために橘彦を連れてきたのだった。
 瓦礫のまわりに暗く凝った闇は、へとへとになって姿を保てなくなった怨霊たちだ。事態収拾のために、怨霊的には最悪のコンディションで働き続けた結果だった。
 巴と話していた者が困り果てた様子でこぼす。
〈我々も普段は平穏に暮らしたいのですが……〉
「怨霊が平穏とか、ウケる」
「巴ちゃんそれ笑うとこじゃなくないかい」
 仁世は責めるふうもなくツッコミながら、肩を回した。瓦礫のなかから細長い骨を抜き出すと、片手で数回力強くしごく。
次第に形を変えていく骨に、橘彦は目を疑った。
「さてさて、こっからニヨ先生のお裁縫の時間ですよー」
骨は仁世の手元で、みるみるうちに大きな縫い針に形を変えていく。
 彼女は針を地面に押し込みながら、瓦礫の向こう側にまわった。ふたたび引き抜いた針からは鈍く光る糸が伸び、地面から無限に引き出されていく。仁世の針は、この分岐世界線をもとに糸を撚り出していた。
 片足を一歩引いて構える。
「そーい」
 ブーメランの要領で放り投げると、針はゆるく回転しながら飛んでいき、虚空に突き刺さった。仁世がめいっぱい腕を広げて宙を漕ぐと、同調して針が送り出されていく。
 すいすいと泳ぐように弧を描いて一周、揃った縫い目が出来上がる。ひと仕事終えた針は、忠犬よろしく飛んで帰って仁世の手におさまった。
 縫い目の内側から、たしかに流れ込む外界の爽やかな空気。しかしこの場所に限って言えば明らかに異質で、住民を蝕む毒ですらあった。糸の燻し銀にふちどられたこのいびつなかたちこそ、黒彦がぶち抜いていった境界の大穴だ。
「ほい」
 突然、振り返った仁世に糸の続きを持たされる。巴も含め三人が糸に連なる形で、橘彦は懐かしの電車ごっこを連想した。
「ひっぱるよー」
 先頭の巴が一気に手繰り、後ろ二人で後方にさばく。銀のふちどりがひゅうっとすぼまる。
電車ごっこではなく、綱引きだ。
 仁世は、穴をすぼめて綴じようとしていた。
「いいぞー」
半分ほどの大きさになったあたりから格段に手応えが重くなり、そこからが勝負だった。橘彦も片手にぐるぐると糸を巻き付けて滑り止めにし、言われるままに腰を落とす。
 さらに、ぴんと張った糸にもやもやと暗い影がまとわりつき、穴のすぼまるペースが上がった。
「みんな無理しないでね―」
 ぼろぼろになっていた怨霊たちである。大勢の加勢を得てあと少し。と、仁世がぱっと手を離す。
「そのままキープで!」
 いくらか危なげな足取りで瓦礫の山を登ると、小さくなった穴に手が届いた。フライパンほどの大きさのそこへ仁世がなにかを貼り付けると、途端に複雑な文様が浮き上がる。
「いいよー」
 糸にかかっていた力がふっとゆるみ、橘彦はうっかり尻もちをついた。目の前の巴も倒れてくるかと思ったが、ぐっと弓なりに背をそらしたと思うと自力で持ち直した。抜群のバランスと柔軟性に舌を巻く。
 これで穴はふさがった。あたりに邪悪な気配が満ち満ちる。
「なんですかあれ、魔法ですか」
 周囲では暗い靄がうれしそうにふくふくと沸き立ち、姿を保っている者は涙を流して喜んでいる。明るく爽やかな空気が、彼らにはよほどしんどかったらしい。
 やっと異能らしい異能に触れていくらか興奮気味の橘彦に、仁世は自慢げに目を細めた。
「ああ、最後のあれ? いいでしょ、雰囲気出て」
「雰囲気?」
「そう」
 うなずくと、身につけていた平たい斜めがけバッグから、張りのある布をぺらりと取り出した。
「機能はただの絆創膏なんだけど、気分出そうと思ってオリジナル魔法陣プリントしたの」
「姐さん、つくるほうのオタクだから」
 巴もにやにやしている。
「妄想力がカンストして、こっちで物の性質までいじれるようになっちゃったんだよね」
「仕事に活かせて一石二鳥!」
「「いえーい!」」
 ハイタッチではしゃぐ二人のテンションに、やはり橘彦はついていけない。
「シロちゃんの眼も似たようなもんでしょ、相手の顔色一生懸命のぞこうとしてるうちに、キャラが高じて、みたいな」
 どことなく不名誉な言われように橘彦は眉をひそめた。
「俺の場合は生まれつきで、別に顔色をうかがってたわけじゃ」
「そうかな?」
 仁世は首をひねる。
「それこそニワトリが先か卵が先か、みたいな話じゃないのかな」
 にんまりと笑う顔の中で、目だけが底知れない。のぞきこむのも憚られて、橘彦はごくりと喉を慣らした。
「こっち側の面白いところはね、いやでもその人の本質が出るところなんだよね。それをどう捉えるかは人によるけど、自分のことは自分で認めてあげないと。でないと一生苦しむよ」
 「一生苦しむ」というひとことに、胸のあたりがざわりと波立った。仁世の言葉は予言めいて、橘彦の心にひっかかる。
 返す言葉が見つからず押し黙った橘彦に、ふたりともそれ以上何も言わなかった。
 代わりに、このあとの予定を確認する。さらにいくつかの分岐世界線を渡りつつ、同様の穴を塞いでから黒彦を回収に向かう、ということで落ち着いた。
「さ、どんどん行こうか」
 飄々と運転席に座る仁世と、いくらか気遣わしげな巴とともに、橘彦は再びバギーに乗り込む。仁世にもたらされたもやもやは、しばらくの間晴れなかった。

 剣と魔法、花とあやかし、氷に炎、バギーはいくつもの分岐世界線を疾走し、仁世を中心にして境界にあいた穴を綴じていく。
 異形の者も、歴戦の戦士も、いたって普通に暮らしていた。物語として世界を渡るのは彼らにとっても特別なことで、切り取られたいち場面でしかない。平穏な暮らしを送りたいのは皆同じ、大切なものを守るために戦うのも同じで、ところによっては橘彦の顔に反応して襲いかかってくる者もあった。黒彦は彼らにとって明らかに異物だ。大抵は事情を話せば引いてくれたが、話の通じない相手は巴が捻じ伏せた。
 巴が扱うのは驚くほど長い十字槍で、敵襲に応じてどこからともなく顕れる。一体どうなっているのか、思い切って訊いてみると、なぜか仁世が驚いた声を上げた。
「シロちゃん、視えてるの?」
「え、どういうことですか」
 質問に質問で返されて困惑する橘彦に、巴も感心したふうに呟く。
「へえ、私だけかと思ってた」
 巴の得物は彼女のイメージが作り出したもの。卓越した空間把握能力が生んだ代物であり、したがって他人に視認されないのだという。不可視の武器はそれだけで大きなアドバンテージだ。
 バチバチと散る火花は彼女の内で繰り広げられる剣戟、巴の武器はつねにそこで磨かれる。それが巴の強さの正体だった。
「まあ、当然っちゃ当然か」
 巴は若干ふてくされて座席に沈んだ。
「え、別に俺と戦うわけじゃないんだし、よくないですか」
「そういうことじゃないんだよねえ」
 きゃらきゃらと笑う仁世に、巴は無言を貫く。

*

 すり鉢に戻ってくる頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
 仁世の能力も万能ではないようで、パーツを取り替えながらだましだまし走らせたバギーももう限界。彼女がひと撫ですると、力尽きたようにばらりと分解して崩れた。
「さて、さんざん働いたしそろそろ休憩……」
 巴は腰に手を当てて辺りを見回す。
 物語世界の図書館とでもいうべき無数の書架のなかには、分岐世界線への入り口だけでなく、すり鉢で暮らす者たちの住まいや商いもところどころに分布している。暗くなると色とりどりに明かりを灯すので、よりくっきりと存在が浮かび上がった。
「あれ、なんでしょう」
 橘彦は遥か下方、中央の平地の隅にひときわ明るい一角があるのを発見した。
「なになに?」
 仁世が分解したバギーから双眼鏡を取り出して目を凝らす。
「おやあ、ちょうちんがいっぱい。あれは宴会だねえ」
「まじ」
「見た感じあれかな、黒彦襲撃にびっくりして飛び出してきたところを、別の世界線の人たちどうし意気投合しちゃって、そのまま外で飲んでるかんじ」
「えっなにそれ混ざりたい」
 巴が鼻息荒く一緒にのぞこうとする。
「いやいま飲んじゃダメでしょ」
「ちょっと、俺いま命かかってるんですけど」
「ははは! そうだった」
 しかし空腹には違いなく、ならばと下まで降りて宴にまざることにした。
 多少の諍いはあるものの、学生から軍服姿の騎士、怪物に獣に怨霊までが一緒になって飲み食いしていた。
 みな異なるルールの世界で暮らしているが、そこから飛び出してしまえば無礼講というわけだ。たとえば怪物と勇者、彼らははたから見れば敵同士でも、そもそも住む世界が違うので敵対する理由がない。それは奇妙に平和な光景だった。
 煌々と灯る明かりはちょうちんやランタンのみならず、キノコや宙を泳ぐホタルイカなど変わり種も多分に紛れていて、誰かがうっかり食べてしまうとその都度「暗い!」とブーイングが起きた。調理方もフル稼働しており、得体のしれない料理を吐き出し続けるかまど、無数の腕でフライパンを振るうシェフ、かと思えば先ごろ亡くなった料理研究家の姿もあって、出しても出しても足らない料理に生き生きと働いている。
「さー食べるぞー!」
 たいへんな喧騒のなか、巴と仁世は腕まくりをして手近な大皿を覗きに行った。たった数歩のあいだにも喧嘩中の狐が飛ばされてきて、巴が野球の要領で打ち返す。狐は自分で「たーまやー!」と叫びながら吹っ飛んでいった。
 誰もが好きに振る舞って遠慮のないようす。橘彦はひどく気後れして出遅れた。どこかへ割って入ろうにも、その隙が見つけられない。人が引いたと思いきや、その場所には食べかすしか残っていない。
 この感覚は知っている。じり、と胸のあたりで嫌な感じがする。どこへともなく「帰りたい」と思って、両足に根が生える。
 と、弱り果てたところへ拳を打ち込まれて、橘彦は咳き込みながら身体を折った。
「ちょっと!」
 いつの間にか巴が戻ってきていた。
「自分だけ仲間はずれみたいに、辛気くさい顔すんのやめてくれる? ごはんまずくなるから」
「はい……」
 巴に引きずられながら苦笑する。
 人に気を遣っているつもりで、実はずっと気を遣わせていたのかもしれない。そんなことを思った。

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