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​四、黒と白

 ぐわん、と地面が揺れて目が覚めた。
 宴の空気にあてられて食べ過ぎた三人は、少し離れた書架の影で休息をとった。背をもたせかけて腹を撫でているあいだに、全員寝入ってしまったらしい。緊張続きの橘彦はもちろん、巴と仁世もそれなりに疲れていたのだ。
 むにゃむにゃと寝ぼけまなこの仁世とは対照的に、巴はすでに膝を立てて身構えていた。
「またやったな」
「なにがですか?」
「黒彦」
 巴は舌打ちせんばかりの調子で独りごちた。
「くそ、かまってちゃんかよ」
 おもてはうっすらと明るく、朝めいた青い光が視界をひたす。
 揺り起こした仁世に、巴はなぜか「あと時間どれくらい?」と問いかけた。仁世は眼鏡をかけて、自分の腕時計を確認する。
「んえ……いま何時だ……あと二時間」
「よし、とっとと片付けよう」
 すう、と息を吸い込むと、指を咥えて鋭い音を鳴らした。
 指笛は高く、力強く尾を引いて響きわたる。巴はなにかを待っていた。
(なんだろう)
 疑問に思ったが、今は話しかけられる雰囲気ではない。
 代わりに、かたわらであくびをしている仁世へ話しかけることにした。「あと二時間」のことだ。
「時間って、なにかあるんですか」
「ああ、土曜の夜はリアタイしてるアニメがあって」
「リアタイ……」
「リアルタイムのこと」
「それはわかります」
 それ以上は丁重にお断りする。
(訊いた俺がバカだった)
 自分の命運を賭けたリミットがまさか、アニメに左右されるとは思いもよらなかった。
 橘彦が「実は仁世のほうがよほどマイペースなのかもしれない」と肩を落としたとき、巨樹の方角からキャーンと高い音が返ってきた。
「来るよ」
 見上げた先で、豊かに生い茂る葉がざわざわと揺れた。

 

 

 異界の曙光を、数多の翼が切り裂く。
 橘彦は、ゆったり羽ばたく大きなトンビに必死でしがみついていた。褐色の羽毛に覆われた背中は見た目よりも硬く、また滑りやすい。周囲を見る余裕もなかったが、景色がとてつもない勢いで後方に流れていくのはわかる。
 ものすごいスピードだった。
「ほとんどの出口を塞いだからな、ヤツもいよいよ炙り出されてきたぞ」
 そう言うアカネはまるきり獲物を狙う目をしている。そのすぐそばで、橘彦同様鳥の背に乗った巴は上体を起こし、アカネとそっくりな目つきで前方を睨んでいた。仁世はというと、「ひょわああ」と奇声を上げながら腹ばいになってへばりついている。
 向かう先は、黒彦の居所だ。アカネたちは、橘彦たちが境界の穴を綴じに奔走している間、着実に包囲網を縮めていた。
「今度こそ仕留めるぞ」
「応」
 アカネが発破をかけると、他の仲間たちも興奮した様子で応えた。たしかに顔は笑っているのだが、隠しきれない獰猛さと殺気にぎらぎらと彩られている。
 はっきりいって怖かった。
 狙われているのはまがりなりにも自分の半身なのだ。橘彦は、こめかみを揉むふりをして目を伏せた。
 大きな翼は狭い場所では機動性を欠く。
 すべての書架には薄闇の帳がおろされ、すり鉢型の図書館はいまや大きな檻と化した。ちょこまかと出入りを繰り返す黒彦にさんざん煮え湯をのまされたアカネたちは、とうとう敵を自分たちの土俵に引きずり出したのだ。
 どこからか、錆のようなにおいが鼻をつく。
「いた!」
 前方と飛んでいたひとりが鋭く声を上げた。
 橘彦にもわかった。本体である自分を引きずるほどの引力。いやでもそちらに目が向いてしまう。
 一帯が咲き乱れる花に覆われ、書架に施された彫刻もやわらかく見事だ。それ自体が大きな生け垣になっていると言ってもいい。
 ただ、あちこちに穴が穿たれていた。抉られているわけではない、そこだけ光を失ったように色褪せて朽ちはじめている。どこからかやってきたのか、あたりには細かな塵が舞っていた。
 点在する焦土のただなかに、こちらを見上げる姿があった。
 離れていてもわかる、自分とおなじ姿かたち。ただ、彼の姿は夜闇に浮かぶよう、色彩がごっそりと抜け落ちている。
 黒彦だった。
 鳥たちは上空を旋回しながら、すでに足止めされている黒彦のまわりに羽根を打ち込んでいく。あやまたず円形に配置された楔は通じ合い、中央にいる者を拘束する。
 黒彦の肩がびくりと震え、さざなみを打つように肌を刺す気配が広がった。
 ゆるい飛び方に足場が安定して、向こう側で巴が立ち上がる。橘彦や仁世も身体を起こした。
 眼下では、彫刻が施された神殿のごとき巨大な書架が、少しずつ色と形を失っていた。

 自分の分身でありながら、黒彦のほうが圧倒的に「主役」だった。周囲を変化させ、引きずり回すだけの力。放たれる純粋な暴力。間違いなく悪なのに、橘彦の目にはひどく魅力的に映る。
 あの瞳の昏さには覚えがあった。
「もう少し近くにいけないかな」
「いいけど」
 ひとりごとに思いがけず返事が返ってきて、橘彦はびっくりして手を滑らせる。トンビがふわりと高度を下げて受け止めた。
「気をつけな」
「ごめん」
 ミズハと名乗った渋い声のトンビは、そのまま徐々に高度を下げていった。橘彦はばくばくとおさまらない心音に胸のあたりを握りしめながら地上に目を凝らす。
 不意に向こうが顔を上げて、バチッと視線がかち合った。
 ひどく嫌な感じがした。見たくないものを見せられている。それは向こうも同じなようで、あからさまに顔を歪めながらも視線はそらさない。
 否、そらせなかった。
「よし、そのまま!」
 視界の外から巴の指示が飛ぶ。
(そのままもなにも、他にどうしようもないんだが)
 そろそろ目の奥が痛む橘彦をよそに、彼女は黒彦のそばに降り立った。追って仁世もぼとりと落っこちて、腰をさすりながら巴のうしろに回る。
 その間にも、視線を介した攻防はつづいた。白と黒、ふたりの橘彦はその眼で互いを縛っていた。意図したものではない。当人同士であるがゆえの、分かち難い結びつき。
 なにかおそろしいものの蓋が開く予感がする。橘彦は吐きそうになりながら耐えた。
 黒彦の周辺は同心円状に風化の速度を早めた。あたりに浮遊する粉塵の靄、巴と仁世もその影響は免れない。橘彦を乗せているミズハも、うめき声を上げながら高度を保っている。
 事態は一刻を争った。
「姐さん!」
「あいあい!」
 両腕を広げ、ぐっと腰を落とした巴を仁世が支えた。途端に巴の槍が無数に複製され、穂先がすべて黒彦を向く。
 巴の空間把握能力と仁世の創造性のあわせ技が必殺兵器を生み出した。
 黒彦の瞳の奥に絶望が交じる。これに同調して橘彦の視界が揺らいだ。黒彦の縛りが解け、巴の槍がいちどきに放たれる。
 黒彦が飛び退った場所に槍が殺到した。素早い身のこなしにすべて外したかと思われたが、からくも三本の槍が左腕をまるごと串刺しにした。
 ぶつ、と鈍い音。橘彦は我がことのように顔をしかめる。
 黒彦は腕を引きちぎって逃れようとしていた。
「このやろ」
 巴が駆け出し、鳥たちが翼を畳んで急降下する。第二波の攻撃が黒彦を襲った。しかし。
「止まれ!」
 アカネの怒号に鳥たちが一斉に羽ばたいた。木の葉のように羽根が舞い散る。
 黒彦は忽然と姿を消していた。
 あとには地面に縫い留められた腕だけが残っている。

「あーっ!」
巴が血に飢えた鬼のように叫ぶ。
「磔にしてやろうと思ったのに!」
「まあまあ」
 突き立った槍の残骸、廃墟と化した書架、風化が進んで砂塵が煙る。あたりは惨憺たる有様だった。
 黒彦の抵抗にさらされたミズハは意識を失い、仁世とともに離脱した。
「ていうかあんた、そのままって言ったじゃん!」
 怒り心頭の巴はいよいよ遠慮がなくなり、橘彦に当たり散らした。いつかの稲妻が視えるようだ。
「それはそうだけど」
「なんで⁉」
 すぐには答えられなかった。ただ、あのとき黒彦との間になにかが通った。ほんの一瞬のことだった。それで、彼も間違いなく自分の一部だと自覚してしまった。
「なんだか、かわいそうで」
「はあ?」
 キレる巴の肩をアカネがつかむ。巴の勢いが止まった。
「俺は、こうして運良く助けてくれる人に出会えたけど、あいつには誰もいないんだな、と思って」
「何いってんの、どっちもあんたじゃない」
 理解できないと呆れる巴に、アカネが口をはさむ。
「おぬしは裏表がないからな」
「それがなに」
 彼は、見上げてくる剣幕をいなすように微笑んだ。
「シロは他ならぬ自分自身と向き合わなければならんのだ。他人には理解できないし、理解できないからといって否定するのはよくないだろう」
 辛抱強く言い聞かされると、巴にも通じたらしい。何度か呼吸を繰り返し、ようやく怒りをおさめた。
「わかった。ごめん」
「俺もごめん」
 ふてくされた様子がおかしくて、少し笑う。それだけで、巴が心底驚いた顔をした。
「えっ、なに」
「あんた、笑えるんじゃん」
「そりゃあ笑うよ」
「いやいや初めて見た」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「なんなんだおぬしらは」
 アカネは呆れ顔、周囲からもからからと笑い声が沸き起こった。詰めていた息をどっと吐き出し、荒んだ場所にあたたかさが通う。
「それで?」
 なごんだ空気をまる無視して疑問を投げ込んだのは、灰白色の翼をもつ背の高い女性だった。
「これからどうします」
 その気取って生真面目なようすに、アカネは面白がって問い返す。
「サギリならどうする」
「はあ」
 サギリはとまり木の上で居住まいを正す。
「さきほどの対応で、シロ殿の眼が対象・黒彦に対して有効だということが確認されましたが、これは主従の力関係によるものと推察されます。げんに、黒彦は動作を制限された一方で、シロ殿は違った。あくまで白の方が主体、黒彦はその支配下を完全に脱しきることはない。このつながりは利用価値があると考えます」
「ふむ、よく見ていたな」
 恐れ入ります、とサギリが頭を下げる。アカネは眉を上げて橘彦を振り返った。
「という話だが、どうだ。シロ殿」
「俺ですか」
「他に誰がいんだよ」
 突っかかるのは巴だ。不機嫌さもあいまっていまだ容赦ない。
 集中する視線に喉がつかえる。橘彦は、何度か咳払いしてから口を開いた。
「俺に何ができることがあるんですか」
「あるな」
 アカネの即答にほっと胸をなでおろす。
「何したらいいですか」
 意気込む橘彦にアカネは目を細め、巴は眉を寄せた。
 橘彦のなかで、久しく覚えのなかった意欲がむくむくと湧き上がっていた。
 役割とは、すなわち居場所だ。
 こちら側に来てからこっち、人の感情を読むことが難しくなっていた。
 いつもならばはっきりと視えるビジョンも、像を結ぶ前に発散してしまう。透かし見ていた対象のただなかにいるのだ、道理といえば道理である。
 ということは、橘彦の立ち位置は事態の当事者というだけで、はっきり言ってお荷物でしかない。返すものがないのに力を貸してもらっている、という意識がどうしても拭えず、終始肩身の狭い思いをしていたのだった。
「思うんだけどさあ」
 さあこれから、というところで、ひとり不満げにしていた巴が声をあげた。
「なんでこう他力本願っていうか、他人まかせなわけ?」
 何を責められているのか、橘彦にはさっぱりわからなかった。
「そりゃあ、俺じゃ詳しいことわかんないし」
「わかんないじゃないよ、黒彦のことは自分のことでしょ? わかんないじゃなくて、ちゃんと考えてよ。さっきだって結局土壇場になって日和るから取り逃がしたんじゃん。どうしたいか、始めに言っといてもらわないとまじで迷惑なんだけど。あれ、何言いたかったんだっけ」
 勢いよく脱線したせいで巴はさらに苛立つ。とまり木から何羽か降りてきてなだめようとしたが、その程度で彼女は止まらなかった。
「そうだ、ニヨさんも言ってた。ひとの顔色をうかがうクセ。相手に従うふりして、調子だけ合わせて楽して、そのくせ自分の思う通りにならないってダダこねんの。黒彦なんてその象徴じゃない。わかんないわかんないって自分のコントロールすら手放した結果、ああやって独り歩きしてる。あんたのわかんないにみんな巻き込まれてるんだよ」
 棒立ちのまま一方的にやりこめられて、腹が立つかたわら腑に落ちる点もあり、橘彦は混乱した。さまざまな感情が渋滞して言葉にならない。
 まばたきを繰り返しながら、投げつけられた言葉をゆっくりと飲み下す。舌触りものどごしも最悪、しかし吐き出すつもりはなかった。
 今にもつかみかからんばかりの巴を羽交い締めにするアカネも、今度は何も言わなかった。他の者も口を挟むようなことはしない。
 反芻しながら、やっとひとこと絞り出した。
「人のことよりも、まず自分をちゃんと見ろってことか……」
「やっとわかったか」
「なにがそんなに偉いんだ」
 勝ち誇る巴の脳天に、とうとうアカネの拳骨が落ちた。

 橘彦がなにげなく黒彦の腕を拾うと、巴はきれいな顔をくしゃくしゃにして嫌がった。
「あんなえげつない技出しといて、これはダメなんですか」
「うえー。やめて、こっち向けないでってば」
 作戦の詳細はその都合上、橘彦本人には伏せられることとなった。どうしても損得の勘定が抜けない橘彦にとっては、そのほうが気が楽だった。
 対価は信頼。これでプラマイゼロだ。
「グロいのは専門外だから」
「べつに専門とかないですよ」
 ほら、と手先を向けると「ぎゃー!」と飛び上がらんばかりに叫ぶものだから、橘彦もちょっと面白くなってきた。巴の裏表のなさ、口の悪さと表裏一体の誠実さがあることもだんだんわかってきて、苦手意識を克服しつつある。
「だいたいなんでそんなもん拾うのよ」
「ほら、森本さんに回収してこいって言われたから」
「そういう意味じゃなくない?」
「じゃあどういう意味なんですか」
 言い返しながら橘彦も困っていた。
 たとえば腕のみならずまるごと回収できたとして、その先どうすればいいのだろう。
「食べてみては?」
「それはさすがに」
 橘彦の手元をのぞきこむ鳥たちは、細かく刻めだの燃やしてみろだの、やんややんやと無責任にさえずる。
 これは頼りにならない。
 人のことより自分のこと、と言われたばかりだ。腕だけとはいえ、黒彦は紛れもなく自分自身である。
(どうしたもんか)
 手元でもてあそびつつ、ためつすがめつしていると、不意に視界がざらつき、眼の奥が差し込むように痛んだ。
 たまらず目を瞑った拍子に涙が流れた。そばの者が気づいて、かばうように翼を広げながらのぞきこむ。
「どうした?」
 答えかねて首を振った。瞼だけでは閉ざしきれず、腹のあたりも落ち着かない。

(かまうな、消えろよ)
 不意に響いた言葉にぎょっとした。
 瞼の裏に、誰かがいる。
 独りでいる彼に、親切顔をして声をかける者があった。ひとり、またひとり。
 群がる人々を、彼は片っ端から泥でつぶしていく。生きながらにして壁の中に塗り込め、次々に視界から追いやった。
 これは自分じゃない。少なくとも、自分があろうとする自分じゃない。
 「うれしいよ」「ありがとう」「別にいいよ」いつもの自分を必死に思い浮かべる。口触りのいい言葉を並べて微笑むその隅で、チリチリと燻るものが消えない。
 わかっていた。これは存在自体を消し去ろうとした自分の一部だ。
 橘彦は相手の善意に心から応えられない。喜んでいるふりをして、つねにその裏を疑ってきた。気取られまいとにこやかに応じているうちにそれ自体が橘彦の心の大半を占め、「感じの良い自分」という初期設定が出来上がった。
 すべて錯覚、欺瞞だった。鎧った笑顔の裏で、奥底に沈む疑いの澱。
 見られたくない裏がある。きっとそれは他の人も同じだ。本当はどう思っているかなんて本人にしかわからない。だからいつまでも警戒は解けないし、いつまでも劣等感がついてまわる。
 こんな淀みを抱えた自分が、見返りもなく親切にされるわけがない。
 本当は、誰よりも橘彦自身が自分を信じられないでいるのだ。
 写し鏡は、橘彦の深層を暴く。

 おそるおそる目を開くと、そこにもう腕はなかった。

「ちょっと、どうしたんだよ」
 あどけなさの残る声に顔を上げると、金色の瞳とかち合った。褐色の翼をもつ歳若い青年がこちらをのぞきこんでいる。
「顔色が真っ青だよ」
 ざあっと血が下がっていく感じがして、視界が黄緑色に明滅する。こらえる間もなかった、今度こそ本当に吐き気がこみ上げてきて、崩れ落ちる勢いのまま胃のなかのものをぶちまけた。
 頭がうまく回らない。指先がしびれるほど冷たく、酸に負けた喉がいがいがと気持ち悪い。
(つらい)
 まだこみ上げてくるものがある。
「とりあえず全部出しちゃいな」
 背中が温かい。誰かがさすってくれていた。添えられるいくつかのてのひら。じわりとしみる気遣いの温度。
 橘彦は両手のひらを地面につき、荒く息をつきながら嗚咽をくりかえした。
「こりゃ次の作戦どころじゃねえな」
「しっ、だまってろ」
(すみません)
 みんないい人だ。どんなに疑り深くてもそれは信じられる。できるだけ橘彦に負担をかけまいとしてくれている。ただ、本心では早く行動を起こして事態を解決してしまいたいはず。
 ひときわ大きな手が両肩に添えられた。
「おぬし、ここまでよく頑張ったな」
 アカネだった。
「分身とはいえ、大勢に白い目で見られてな。おぬし自身はなおさら身動きとれんよなあ」
 肩をぐいぐい揉み込まれて、たまらず涙があふれた。
 心遣いがしみて、ますますいたたまれない。
 捕らえられるはずのものを取り逃がしたどころか、そもそも騒ぎの原因をつくったのは自分だ。これではほんとうに、諸悪の根源ではないか。
(きえたい)
 しばらくひとりになりたかった。分岐世界線への入り口は封じられ、地形はすり鉢状で逃げ隠れのしようがない。唯一、人目を逃れられるとすれば。
(木のうえ)
 引き寄せられるようにして見上げた巨大な樹。世界樹とも呼ばれるその樹冠ははるか高みにあって異界の天井を支え、梢は生い茂る葉の重みに揺れている。
(あそこなら)
 枝に腰掛ける自分をイメージした瞬間、背に感じていたあたたかな感触がふっと消えた。

「消えた?」
 橘彦の姿を見失って、鳥たちは騒然と浮足立った。特に、間近で寄り添っていた者たちは宙を掻いて動揺している。
 黒彦に次いで、橘彦も忽然と姿を消してしまった。
「あいつ、ゲロそのままにしていきましたね」
 橘彦が戻したものに足で砂をかけながら、巴はひどく落ち着いていた。
「自分の始末は自分でつけろっつの」
「言ってる場合か」
「言ってる場合ですよ。あのね」
 巴は周囲をじろりと睨めつけた。
「あいつも、あんたたちも、人間を複雑に考えすぎなんだよ。その割に雑なんだよね、表だ裏だ、白だ黒だって、二つに分けて考えりゃそりゃ対立もするだろって」
 あーあ、とうんざりした様子で天を仰ぐ。
「くっだらねえ。無理に分けて隠そうとするから制御できなくなるんですよ。怖いものとか汚いものとか、そういう悪いものを徹底的に避けて通ればそりゃああいうことになるでしょうよ。過剰反応しすぎ。ったく、賞味期限切れたレベルのちっちゃいことでピーピー言いやがって」
「なんの話だ」
「橘彦が黒彦に対して拒否反応を示してるって話だよ」
 巴は言い放つと、大きくひと呼吸ついた。
「シロ、あいつは悪いと思うものに過剰反応しすぎる。ひたすら消去法で生きてる。だからああなったんじゃないかと私は思ってる。いいヤツが誰に対しても永遠にいいヤツなわけないし、逆だってそうでしょう。はっきりした善悪なんてありえないんだから。私だって、すぐ力でねじ伏せる悪いクセはあるけど、それが本当にいいか悪いかなんて時と場合だし」
 このとき、周囲のだれもが「あ、自覚あったんだ」と思った。
「ものの価値なんてそんなもん。黒彦ができたのも結局ああいう、攻撃性とか狡猾さとか計算高さとか、そういう力を本人が〈悪いもの〉としてよけてきたからじゃない。なまじ力があるからリアルに分身しちゃってえらいことになってるけど、まともにコントロールできればけっこうな武器になるはずなんですよ。利用するのさえ悪いことだと思ってるみたいだけど。でも本人に自覚がないどころか必死に隠そうとするからこっちも助けてやりようがない」
「やはりそういうことでしたか」
 ぼやきはじめた巴を遮るように、サギリが口を出した。
「そういうことって?」
 彼女は美しく整えた翼をたたみ直しながら、訳知り顔でうすく微笑む。
「あなたがたの狙いは、黒彦回収に乗じてシロのほうの彼を仲間に引き入れることなのだろうと、うすうす察してはおりました。認識を反転させ、彼自身が認めようとしない側面を能力として引き出す。自己否定から解放されれば、彼もずいぶん生きやすくなるでしょう。そこには恩義が発生します。さらに、その能力が重用されるとあらば断る手はないでしょう。実にあざやかな手口です」
「手口だなんて人聞きの悪い」
そう返す巴はまさに悪巧みの顔をしている。サギリといい勝負だ。
「それに、この筋書きは店長が考えたからそこんとこよろしく」
「そうでしょうね、あなた単純そうですし」
「なに」
「いいえ」
 サギリは首をのばしてつーんと目をそらした。巴はまだ何か言いたげにしながらも話を進める。
「まあそういうわけなんだけど、すでに相当こじれてるから、もう力ずくしかないと思うのね」
 肩慣らしついでに、巴は不可視の槍を振り回す。不意に風を切る音に驚いて、何人かの鳥が彼女から距離をとった。
「どうせシロの居場所もすぐわかるんでしょ」
「まあな」
 腕組みして巴を見下ろしていたアカネはあっさりと請け合った。
「あれだけ影響力の大きい人物を野放しにするわけがあるまい」
「いい性格してるわ」
 巴は口を開けて笑った。
「それに、どうやらどちらの作戦も方向性が一致しそうだしな」
 そう言うなり、アカネはその場の全員に計画を説明した。
 黒彦を捕らえ、橘彦の力を引き出す一手。かなりきわどい内容に、少なからずどよめいた。
「なるほど」
「理には適っている」
「そんなことして大丈夫なのか」
「やるしかないだろ」
 具体的な方向性が見えたことで、消沈していた皆がだんだんと元気を取り戻していく。
 切り替えの早い鳥たちは、すぐさま役割を振り分けて出立の準備を整えた。
 ふたたび運び手役の鳥の背に乗り込む巴に対して、アカネが声をかけた。
「しかしおぬし、どんどん口が悪くなるな」
「フン、誰のせいだと思ってんのよ」
「怒ってるのか」
「当然でしょ」
 巴は鼻息荒く答えた。
「悲劇のヒロイン面してるヤツって昔っから嫌いなのよ」
「なるほどな」
 わからんでもない、とつぶやきながら、アカネも翼を広げた。

「うそだろ……」
 気づくと、橘彦は枝をまたぐようにして樹上に腰掛けていた。それもただの木ではない。
 例の世界樹の上である。
 枝ごしにそうっと見下ろした地上は遥か遠く、輪郭がぼんやりと溶けて見える。混乱した頭になぜか〈空気遠近法〉という言葉だけ浮かんで、あまりのどうでもよさに頭を抱えた。
「どうしよう」
 なぜこうなったのか、心当たりはなくもない。他ならぬ自分が望み、イメージしたとおりの図。もはや、橘彦の異能が関係しているとしか考えられない。
 のぼってはみたものの、自力で降りられなくなった猫とおなじ状況だった。
 幸い、枝の太さは橘彦の腕では抱えきれないほどで当分折れる心配はなく、幹に背をもたせかければ安定感は抜群。助けは当分見込めない上、望み通り誰の目も届かないところで一人だ。
 葉擦れのざわめきに、地上からかすかに響いてくる物音。こんな高所にも住民はいるらしく、何かが身動きする音も交じったがそれは気にならなかった。腹をくくってしまえば、橘彦にとってこれほど心安らぐ場所もない。手元にはちゃんとリュックもある。備えあれば憂いなし。まずは水で口をゆすぎ、からからになった喉を潤す。
 遠くからではわからなかったが、樹が大きければ葉も大きい。ちょっと風が吹く程度ではびくともせず、落ちてきたものを見ると小舟ほどもあった。飛ばしそこねた紙飛行機のようにひらひらと舞い落ちるさまを見るに、人ひとりくらいなら乗れなくもないのでは、という気もする。運良く手頃な葉を手に入れたら試してみる価値はあるかもしれない。自棄になっているというか気分はすでに余生で、積極的に命を絶つ気はないがなりゆきで死んでしまうならそれでもよかった。
 あまりに大きく揺さぶられた橘彦の神経は、一種のバグを起こしていた。家電を買い換えたあとに金銭感覚が狂うのに似ている。急激な環境変化で、ものさしが目盛りのないただの棒になってしまった。
 樹皮のにおいを嗅いでみたり、木漏れ日で遊んでみたり、楽な姿勢をいくつも試してみたり、まるで猫にでもなった気分だ。
 とはいえ樹上でできることも限られている。最終的に、ほどよい太さのところまで這っていって、うつぶせに寝そべることにした。暇を極めると、思考はとりとめなく流れていく。
 橘彦は、自分の水晶眼がどういう仕組みで働いているのか、ためしに考えてみることにした。

 ぶうん、という羽音に顔を上げると、梢の先に小鳥が一羽とまっていた。
(ずいぶん高いところまで来るんだな)
 翅を広げた大きさは橘彦の手のひらほど、腹は黒くがっしりとしている。橘彦がじっと見つめると、向こうもじっと動かなくなった。見ていれば自分にも翅が生えてくるんじゃないかと期待したが、そうもいかないらしい。飽きずににらめっこを続けていたら、蜻蛉のほうが根負けした。
「勝った」
 腹ばいになったまま小さく拳を握る。
「でも、見るだけじゃだめなんだな」
 相手の心象を透かし見ること、姿を写し取ること、どうやらイメージどおりの場所に移動することもできるらしい。これまでに確認した異能はこのみっつ。ただ、どういう条件で発動するのかがいまひとつつかめない。
(まあいいか)
 時間はたっぷりあって、生きて帰れるかどうかも不明。なら、無理に結論を出す必要もないのだ。枝元の太いところに這い戻り、見つけた窪みに背をもたせかける。次第に瞼が重くなり、すべり落ちるように意識を手放した。

 

つづく
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