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​二、水晶眼

 浅葱巴は銀杏堂書店の特務社員である。
 味も素っ気もない黒のカットソーに肩先で切りそろえられたまっすぐな黒髪。ぱっと見は華奢で色素が薄く、雪に花びらを思わせる凛とした美人だが、その細腕から信じられないほどの鉄拳が繰り出されるので取り扱いには注意が必要だ。
 勤務実態も書店員というよりは用心棒に近く、凶悪さが振る舞いや口ぶりにあらわれてしまって手放しで褒めることがどうにもむずかしい。悪い虫が寄ってくることもあるにはあったが、彼女を知る人間からすれば、本人の安否よりも過剰防衛による相手の被害のほうが心配、というありさまである。
 性格にいくらか難がある点は自他ともに認めるところで、しかし彼女は強靭な精神と抜群の身体能力の持ち主だ。弱冠二十歳にして正社員におさまっているのも、この能力を請われてのこと。巴自身は、のびのびと働けるこのフィールドをとても気に入っていた。
 さて、銀杏堂には、公にしていない裏の顔がある。
 地下の売り場のさらに奥、今は使われていない倉庫の隅に、古びた扉がある。鍵がかかっていないのはその必要がないからだ。限られた人間しか先には進めない。
 そこは異界へとつづく入り口。独自の理、この世ならざる力が働いている。
 銀杏堂が世界の縁に立ち、双方の番人を担っていることはごく一部の人間しか知らない。

 *

 その日、いつもどおり朝の定時巡回を終えた巴は久しぶりに店頭に顔を出した。
 〈あちら側〉がしばらくごたごたしていたせいで、巴が店頭に出るのは久しぶりだった。いつもなら夕方の忙しい時間帯にはかならず加勢に入るのだが、この数日はそれすらままならず対応に追われていた。定時巡回で問題が見つからずに済んだのは、実に七日ぶりのこと。さすがの巴もぐったりである。
 こういうときは表に出てお客さんと世間話をするにかぎる。そう思って早速おもてへ出ていくと、タイミングよく常連のご婦人に出くわした。
「あっ、サキさんじゃん」
「やだ巴ちゃん、しばらく見ないから心配してたのよ」
「へへ、ちょっとバタバタしてて」
「アナタ、また痩せたんじゃないの」
「いやこれでもめっちゃ食べてるんですけど」
「まー! これだから若いってやだわ」
 他愛のない話をしながら、自分の世界はこちら側なのだとあらためて確認する。普通の感覚を取り戻すための、一種のキャリブレーションだ。
 もちろん、会話の最中も周囲への目配りは忘れない。腐っても書店員、さらに巴は銀杏堂の守護者を自称している。万引き、不審者、強盗犯。なにかあれば、警察を呼ぶまでもなく伸してやる気でいた。
 だから、棚の影にひょこひょことのぞく人影に気づかないわけがないのだ。
(かくれんぼか?)
 明らかに人目を避けている。そういう客は少なくないが、単純にあまり話しかけられたくないか、あるいは。
(よからぬことでも企んでいるか)
 巴は先手を打つことにした。
「サキさんちょっとごめん」
「あ、ごめんねお仕事中に」
「ううん」
 棚の間を素早く抜ける。
 向こう側をのぞきこむのと、男と目が合うのはほぼ同時だった。
(やばい)
巴は思わず顔をしかめた。
 なにかがバチンと弾ける感覚、次いで身体の自由が奪われた。金縛りに近い。ただそれも一瞬のことで、男が崩れ落ちた瞬間に縛りが解ける。
 若い男だった。寝癖の残った短髪にモッズコート、細面に無精ひげが浮いている。ポケットから飛び出たあんパンの袋が間抜けで、こうやって見ると悪い人間にはとても見えない。
「かえって悪いことしたかな」
 巴は腰に手を当てたまま途方に暮れた。

「巴さん、迂闊でしたね」
「でもあれ、たぶん無自覚っすよ」
「そういう問題じゃありません」
 ぴしゃりと窘められて巴は肩を竦めた。
 店主である森本の口調には、穏やかだが有無を言わせぬものがある。
 細身で小柄、細い銀縁の眼鏡にカジュアルなボタンダウンシャツをすっきりと着こなした老紳士。姿勢がいいので若々しく見えるが、先日古希を祝ったばかりの立派な老人である。
 銀杏堂書店の店奥、作業場を兼ねた事務所には品出しや返本を待つ書籍がひしめいており、残された僅かなスペースにやっと人間が身を寄せ合っていた。
 壁際の長椅子には、さきほど店頭で昏倒した男が気持ちよさそうにのびており、その寝顔を見下ろして森本は思案する。
 巴の話から察するに、彼は異界の気配が抜けきらないまま店頭に出た巴とまともに〈衝突〉してしまったらしい。視えるタイプの人間ならばあり得ることだ。特に巴の場合は威力が強い。相手が目を回しても不思議はなかった。
(干渉力が強いわりに、本人はあまりに無防備……)
 あるいは、弱っているぶん異界との親和性が高くなっているか。
 ならばすこし危うい、と眉を寄せる。
「本当に、病院連れてかなくて大丈夫かしら」
「身体のほうは問題なさそうですよ」
 パートの日野さんの心配顔に、森本は笑顔を見せた。
 頭を打った様子もないし、呼吸も落ち着いている。問題は中身だ、と彼は内心で独りごちた。

 ぱち、と目を開けた橘彦の目にはじめに飛び込んできたのは蛍光灯のまぶしい白、次いで雑然と積まれた段ボールと書籍を積んだワゴンだった。
(……ここは)
 目の奥にはまだ小さな稲妻が居座っており、ちりりと視界にうるさいわりに気分は悪くなかった。身体を起こすと節々がきしむ。体にかけられていた自分のコートがばさりと落ちて、取ろうとした拍子にバランスを崩した。
「うわ」
 慌てて床に手をついて、はずみで一気に目が醒める。縦横を走る稲妻、その衝撃と向こう側に見えたひとの姿。眼の底が疼く。
 ギッ、と音がして、目の前の事務机の人物が振り返った。
「おはようございます」
 柔和な笑みが橘彦を見下ろした。
 その奥には深い森。山肌を覆う深緑の木々、切り立つ崖とのぞく岩肌。動くものといえば流れる霧のみ、それでいて生き物の気配が充満している。
 久しぶりに思いっきり覗いてしまった。気づいたときにはもう遅い。
 動揺した橘彦を、森本は見逃さなかった。
「何か、見えましたか」
 静かに問うその声が、橘彦にはひどく恐ろしい。
「視えましたね」
 橘彦が〈普通〉でいるために、視ることを避けてきたもうひとつの視界。
 この人にはバレている。根拠のない直観が橘彦を貫いた。

「はい、Bランチのオムライスみっつー」
 ごとりと置かれた皿にふっくらと盛られた黄金のかがやき、薄焼き卵にかけられたケチャップは深い艶をたたえている。
 思わずごくりと喉が鳴るものの、橘彦はなかなか手を出せずにいた。
 橘彦が銀杏堂で目覚めたのはちょうど昼時。ちょうど遅番のスタッフが入って事務所はいっそう狭くなり、追い立てられるようにして昼食に連れ出された。
 森本と二人、商店街をしばらく進んで一本奥に入る。
 果たしてそこに目当ての店はあった。
 赤茶色のタイル張りの外壁はそのほとんどが植木と蔦で覆われて、室外機と並んで鎮座する陶製の鉢には何が棲むかもわからない。看板はかろうじて「ミルキーウェイ」と読めた。
 森本が慣れた様子で店の扉を引くと、カランカランとやわらかい音がする。
 途端にどら声が飛んできた。
「おう、よく来たなくたばり損ない」
「いやあ、この店はいつも空いていてありがたいですねえ」
「それはな、あんたみたいなのが長居しにくるからだよ!」
 天井からは古びたランタンが大小さまざまに下げられ、フロアには重厚な革張りのボックス席が並ぶ。カウンター奥に陣取った老齢ながら体格のいいマスターは、どうやら森本と古馴染みらしかった。
「ここ、味はいいんですけどね。とにかく店主があれなので」
「聞こえてるぞ」
「ほらね、面倒でしょうあの地獄耳」
 反応に困った橘彦は、とりあえず半笑いでお茶を濁す。
 ちらほらと頭部がのぞく先客たちに動じた様子はなく、どうやらこの程度の応酬は日常茶飯事のようだ。
 一番奥のボックス席に通され、口を挟む間もなく注文はオムライス。結局、橘彦はちびちびとお冷を舐めていることしかできずにいた。
(これ、誰のぶんなんだろう)
 向かい側で湯気を立てるオムライスがもうひとつ。眉をひそめつつも聞けずにいると、リィンと乱暴にドアベルが鳴った。
「マスター、うちの店長きてる?」
「そこ!」
「ども」
 振り返った橘彦は、自分の顔がひきつるのを感じた。ふたたび眼の奥がじりっと疼く。
現れたのは、橘彦が倒れることになった元凶。彼女がまとう火花がすべてを物語る。
(このひとだ)
 彼女こそ橘彦を打った稲妻の主、浅葱巴そのひとであった。

「もう大丈夫なんれふか?」
「巴さん、せめて飲み込んでから喋ったらどうですか」
 腰をおろすやいなや、巴は真っ先にオムライスに匙を入れた。スプーン山盛りをはぐはぐと口に放り込み、その間も話そうとするものだからいろいろと危ない。見ていて気持ちいいほどの食べっぷりである。
「らって時間ないし」
「休憩は別でとっていいですから」
「そゆことは早く言ってくらはいよ!」
 目を輝かせた巴に、森本はがっくりと肩を落とす。
 橘彦はどういう顔をしていいかわからず、ただ黙々と匙を運んだ。トモエと呼ばれる彼女のほうから絶えず火花の気配がして、まともに目を合わせるのが怖かったのもある。
「というわけで、こちらは浅葱巴さん。うちのスタッフです」
「どうも、さっきは失礼しまひた」
 一応スプーンを置いて、巴が頭を下げた。お互いに口をもぐもぐさせつつ自己紹介する。
「でも僕、なんで謝られてるかもよくわからないんですが」
 橘彦がおそるおそる訊いてみると、「全部このひとが悪いんですよ」と森本は渋い顔をつくって巴を指差した。
「こちらが不用心だったから、あんなことに」
「あんなことって……?」
 一体、何が起こったのか。意識を飛ばすほどの衝撃があったのは事実だが、意図して危害を加えられた気はしない。
「何だったんですか、あれ」
 まるで、夕立を丸めて投げつけられたみたいだった。この厄介な眼でいろいろと視てきたが、あれほど激しいものは初めてだ。そのあたりのことは森本にはすでに伝えてある。
 森本と巴がかるく顔を見合わせ、結局森本が口を開いた。
「信じてもらえるかどうかわかりませんが、どうも巴さんの意識と折原さんの意識が衝突したようなんですよね」
 どちらかというと巴さんが轢いた格好で、と続ける。
「轢いた? 車みたいにですか?」
「そう」
 本人はあさってのほうを向いている。
「巴さんは自分のなかに大きな空間を持ってるんです。頭の中というか心象風景というか、イメージの箱のようなもの。これは誰しも持っているものですが、彼女の場合はそのサイズが途方もなく大きい。しかもそれを武術の手段として使うので、他の人のそれより性質が荒いんです。あのとき、折原さんは巴さんの意識がほぼむき出しの、無防備な状態のところへ出くわしてしまった。〈視える〉タイプの人ならダメージを受けて当然、出会い頭の事故みたいなもんです。これに関しては完全にこちらの管理不行き届きでして、申し訳ない限りで」
「はあ」
「つまり、まとめると、折原さんは事故の被害者なんですよ」
 なぜか念を押されているが、被害者の実感はない。
 それよりも妙な話になってきたな、と橘彦は思った。
 森本は「あらためて、申し訳ありませんでした」と巴の頭も下げさせる。
 ところが、巴が殊勝にしているのもそこまでだった。
「で。それ、生まれつきなんですか」
「巴さん、いきなりなんですか」
「いや、もう謝ったし。大丈夫そうだし。このひとも知りたそうだし」
 不躾なのはデフォルトらしい。呆れて誰も止めないのをいいことに、巴はさらに迫り、橘彦は思わずのけぞった。
 爛々と輝く瞳に火花が散る。
「前からいろいろ見えてるんすか。心霊現象とかそういうんじゃなくて」
「……視えます。生まれつきです」
「へえ!」
 ぱっと顔が明るくなった。美人は美人、笑顔になれば場が華やぐ。
 どうやら歓迎されているようだと察して、すこし肩の力が抜けた。
 意外にも、巴は話を聞くのがうまかった。反応が素直なうえわかりやすいので、なんだかんだのせられてしまう。
 二人の反応を見るかぎり、どうやら彼らはこの手の事情に通じているらしい。橘彦は誰にも明かしたことのない秘密をすっかり話してしまうことにした。

 幼い頃から他人の感情が目に視えた。
 思考そのものを読めるわけではない。オーラのように漂い、瞳をのぞけばよりはっきり視えるもの。
 橘彦にとってはあまりにも当たり前だったので、森本が「心象風景」と表現したのを聞いてやっとしっくりきた。いままで誰とも共有することがなかったので言葉で言い表す必要がなかったのだ。
 人の内面に広がる世界は、千差万別。
 海や山、ビル群に公園。はっきりと像を結ぶものもあれば、とらえどころのない色や形ばかりのこともある。特撮ばりに怪獣が荒れ狂っているのも視たことがあるし、胸のあたりに花が咲いていたり、シャツをまくった腕に鱗が浮いている場合もあった。子供の頃は、そうした不思議なものを見つけるたびに両親に気味悪がられたものだった。
 どうやらこれは自分にしか視えないらしい、ということは早々に悟った。
 こうした視覚情報から、本人が口や顔には出さないような内心を読み取ることができる。橘彦はいつだって相手の感情を推し量り、調子を合わせることができた。
 便利といえば便利な能力だ。
 ただ、長じるにつれて思い知る。視えるのは決していいことばかりではなかった。
 年々、視なければよかったと思うもののほうが増えていく。
 自他を問わず向けられる嫉妬や失望、小さな悪意。日々の会話の奥底に黒々とわだかまる邪気の数々が橘彦を絡め取っていった。つねに相手の言葉の裏を探るクセがつき、自分の意志を通すことも、好意を素直に受け取ることもどんどん難しくなった。
 その末路が今の自分だ、と橘彦は自嘲する。
 周囲の人とのあいだにざっくりと口を開けた深い溝は、他ならぬ自分自身が掘り進めてきたものだった。
(わかっちゃいるんだけど)
 社会に出てからは極力視ないように心がけてきたが、ふとした瞬間に視えてしまうとどうにもならなかった。
 知らないほうが幸せなことは世の中に死ぬほど転がっている。

 食後のコーヒーを片手にぽつぽつと話しながら、橘彦はだんだん愚痴っぽくなっていく自分に気づいた。なんだか箍が外れてしまっている。自覚はあったが止められなかった。
 ずっと誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない、と思うと孤独が浮き彫りになってすこし哀しかった。
「……なので、今となってはこの体質で良かったとは、あんまり思えなくてですね」
「そうですかね?」
 語調があまりに鋭くて、驚いて顔を上げた。
 ずっとなにか言いたげにしていた巴が、我慢ならぬと話をさえぎり、あからさまにため息をつく。顔をしかめると美人に凄みが増して、妙な迫力があった。
「単純に合ってないんじゃないですか、その仕事」
「はあ」
「あと、視えるのが悪いみたいに言ってますけど、そんなの使い方しだいですからね」
「それは……」
「それからはっきり言って、その被害者ヅラが気に食わないんですよね」
「ストップストップ」
 森本が慌てて割って入り、「それじゃただのいじめですよ」とたしなめた。
(なんだこいつ)
 内心を押し隠して苦笑いする。それがまた気に食わないらしく巴のまわりに火花が散ったが、それだけだった。むっと口を噤んでそっぽを向く。
「子供じゃないんだからね……」
 言ったところで聞く耳をもたない。森本は早々に諦め、橘彦に向き直った。
「まあ、もったいないなとは思いますけどね。いまあなたがハンディに感じているその能力、私達の仕事にとっては得難い、貴重な才能なので」
 一度言葉を切って、にっこりと微笑む。
「というわけでですね。どうですか。その個性、うちで活かしてみませんか」
「へ」
 橘彦の口からは息だけが間抜けに漏れた。森本はおや、と眉を上げる。
「わかりづらかったかな。転職のお誘いです」
「え、本屋さんですよね」
「本屋ですよ」
 眼鏡の奥が悪戯っぽく笑う。橘彦はさらに混乱した。
「立地が特殊、というかね。なんとなくお察しのことと思いますが、店の仕事以外にもいろいろ」
「というと」
「地下が異世界に通じてるんですよね」
「いせかい」
「そう」
 森本は両肘をついてずいと身を乗り出した。
 橘彦の視界に底知れぬ深い森が広がる。嘘をついているわけでも、ボケているわけでもなさそうだった。
「そこでは、ありとあらゆる物語の源、人々の共有財産としてのイメージが実体をもって存在するんです。私たちが頭の中で思い描くものにはちゃあんと出どころがあって、かれらはかれらで別の時間を暮らしている。あなたが視ているのは、まさにそちら側の光景なんです」
 橘彦の頭上には疑問符が並ぶばかりだ。見かねて巴が口を挟む。
「わかりやすくいうと、」
 彼女はミルキーウェイのロゴが入った紙ナプキンを引き寄せて、棒人間の図を描きはじめた。
「イメージとか想像とか、そういうのって実は裏でひとつながりになってんのね。自分だけのものじゃない。完全なオリジナルなんてありえないってよく言うけど、どっかからひっぱってきたもの。その〈どっか〉っていうのが、いまの話でいう異世界。あっち側。私達がイメージするものとか心の中はその世界の一部で、私達のイメージがその世界を支えてる」
 たくさんの棒人間を大きな輪がつないで、ぽっかりと空間ができた。その空間のなかに、大きな樹が描き込まれる。
「あっちはあっちで別で暮らしてて、基本こっち側とは交じらない。ただ、いくつか出入り口はある。そのうちのひとつが人間の心の中ね。こっちは個人の専用、窓みたいなもん。たぶん、あなたが視てるのがこれ」
 棒人間のひとつひとつに小さな窓が描き加えられる。巴はさらに、輪の切れ目に扉を描き足し、ペン先でつついた。
「もうひとつは、もっとちゃんとした入り口。こっちは実際に出入りできる。ものすごく珍しいし、人にもよるけど。逆に向こう側からこっちに来ちゃうこともあって、心霊現象だとかいって大騒ぎになる。だから、そこは混乱しないようにおたがい管理が必要なわけ」
「なるほど……?」
 相変わらず理解が追いつかないが理屈はわかった。橘彦は自分の眉間にシワが寄るのを自覚しつつ、ひとまず先を促すことにした。
「で、この実際に出入りできる入り口のひとつが、うちの店にあります。とりあえず説明おわり!」
 唐突に終了宣言するなり、巴はぽいとボールペンを投げ出した。
「巴さん、急に雑になりましたね」
「うん」
「飽きましたね?」
「だってこれ以上説明のしようがないでしょ」
 実際に見たほうがはやいんじゃない、と言われて、橘彦は返答に困った。この提案、安易に乗ってはいけない気がする。ひとまず話の矛先をすこしずらす。
「話はなんとなくわかったんですけど、それと僕が視えることがどうつながるか、もう少し詳しく教えてもらえると」
「あーなるほどねー」
 ふたたび紙ナプキンの登場である。あからさまに面倒そうな顔をする巴の代わりに、森本が話を進めた。
「どうもね、聞いたかぎりでは、折原さんの眼はそれ自体が特殊なんですよね」
 頭に窓のある棒人間の横に、もうひとり棒人間が描き込まれた。その頭から窓に向かって、矢印が放たれる。
「この場合はレンズかな。異界側に焦点を合わせられるレンズ」
「のぞきみたいじゃん」
「やめなさい」
 巴の横槍を両断してさらにつづける。
「あちらとこちらのそれぞれの領分を守るのが私達の仕事なんですが、なにか問題があった場合に原因があちらにあるとは限らない。むしろ、こちら側の異変に気づくことのほうが難しい。それを目視で拾うことができる、それもあなたほどはっきりと捉えることができるとなると、ずいぶんと仕事がスムーズになります」
 一拍置いて、森本は空になったオムライスの皿に手をかざした。
「さしづめ、魔法使いの水晶玉、といったところですね」
「そうなんですか」
「そうなんですよ」
 どうやら水晶玉をのぞくポーズだったらしい。
 自分の力が、自分以外の役に立つなんて考えてもみなかった。これまでいかに隠し通すかしか考えてこなかったのだ。
 人知れずこそこそと他人の感情を読んでいたという点では、巴の言う「のぞき」に違いない。
 巴のことはどうも苦手だ。彼女には裏表がない。ゆえに言動のひとつひとつが核心を突いてきつかった。
「見た感じ、視たくて視てるんじゃないだろうけどさ。万年人手不足のこっちとしては、それこそ喉から手が出るレベルの能力なんだよね。いい気はしないですよ」
 コーヒーカップを名残惜しげに干しつつ、巴はこちらを見ずに、半ば慇懃に言った。
「力ってあくまで道具だし、武器とかと一緒で使う人次第っていうか、使いようじゃないですか。えーと」
 一度宙を見上げて、はた、と思いつく。
「ほら、重いだけの教科書でも、カバンごと振り回したら鈍器になるでしょ」
 とても書店員とは思えない喩えに、束の間「ん?」と沈黙がおりた。
「巴さん、その喩えは良くないかも知れませんね」
「そう?」
 まるで悪びれる様子のない巴に、森本と橘彦は揃って頷いた。
「少なくとも、あなたの教科書に対する態度はよくわかりましたが」
 森本はひとつ咳払いして、橘彦に向き直る。
「そうですね……ベタな喩えだと石でしょうかね」
「石」
「そう。ただの石ころと見るか、宝石と見るか、ものの価値は時代や環境によって変わるものです。あなたがお荷物に感じているその能力――見通す力ですから、仮に〈水晶眼〉としましょう――それも、うちに来てもらえれば宝物ですから」
 それに、と続ける。
「力の扱い方についても、なにか力になれるかもしれませんよ」
「なるほど」
 橘彦はすこし時間をかけて、ゆっくりと話をのみこんだ。
 ずいぶんと現実離れした話だと思ったが、人のことは言えない。むしろ、自分の異質さに由来と名前がついて、いくらかほっとしている自分がいる。
「わかりました、ちょっと考えさせてください」
「そうですね」
 森本はすまなさそうに眉尻を下げた。
「急にいろんな話をして、申し訳なかったね」
「いえ」
 労るように声をかけられて、橘彦はかえって申し訳ない気持ちになる。
「じゃあ、そろそろ」
「はいはい、どうぞ」
 伝票を裏返そうとすると、森本が止めた。橘彦はおとなしく厚意に甘えることにする。
「話聞いてもらってありがとうございました」
「こちらこそ」
 コートを羽織りつつ立ち上がると、「またおいで」とマスターから声がかかる。
「それじゃ、気をつけて」
 意外にも、帰りがけにそう声を掛けてくれたのは巴だった。振り返った先、片手を挙げた彼女の眼差しに本気の心配がのぞく。
 橘彦は首を傾げつつ喫茶店のドアを押した。

*

「……あの人、大丈夫なんすか」
「あれ、巴さんも気づきました?」
「気づいたっていうか……」
 巴はソファに身を沈めて嘆息した。
 森本も背もたれに首を預ける。
「どうも彼のバランスはあちら側に寄りすぎてますね。内省の傾向がつよいことと、その期間が長かったこともあるでしょう」
 そこで思いついたようにふっと笑った。
「巴さんと足して二で割ったらいい」
「言ってる場合か」
 かみつく巴を、森本はひらりと躱した。
「あとは本人次第でしょう。今日だってかなり強引でしたからね、僕らは一旦ここまでですよ」
 テーブルすれすれのところから、巴の切れ長の目がじろりと睨む。
「前から思ってましたけど、店長だいぶドライっすよね」
「そういう巴さんは、意外と情に篤いですよね」
 巴がむっと黙ったのを見て、森本はじわりと目を細める。

 それから数日のあいだ、橘彦はとりあえず出勤に成功した。
 相変わらず気分は重いが、なんとか起きて動けている。時間通りに身支度をして家を出て、電車に揺られて会社に向かう。ただそれだけのことだが、他人と同じサイクルで動けるというのは橘彦を安堵させ、いくらか自信回復にもつながった。
 銀杏堂での一件以来、腹の底に黒々と凝っていたものがなくなって、憑きものが落ちた心地だった。
 上司への不満、期待に応えられないことへの焦り、報われないことの辛さ。そうしたものの一切がすっかり抜け落ちて、心の中がからりと乾いていた。
 淡々と仕事を進めつつふと思う。
(べつにこれ、俺じゃなくてもいいなあ)
 つまるところ、いまの職場がどうでも良くなったのである。

 銀杏堂による転職の誘いは、橘彦に思わぬ変化をもたらした。
 この仕事を続ける理由はない。新卒で入った会社なのでこのまま続けたほうがいい気もするが、それも刷り込みみたいなものだ、橘彦自身の意思とは関係ない。
 いまとなっては幸いというべきか、人間関係も希薄だ。良くしてくれた人もいるのでその人にはきちんと礼を言いたいが、あとは何とも思わない。おかげで身軽だとすら思う自分は薄情なのかもしれない、とすこし反省した。
 いちいち相手の感情の動きに反応していたこともばからしくなって、相手の瞳にどんな色がのぞいても気にしないようにしていたら、ずいぶん気が楽になった。仕事そのものもきわめて事務的に、感情をのせずに処理することでスムーズに運ぶことが増えて、今更「こうすればよかったのか」と思わずにはいられない。
 そうなると、特に辞める理由もないことに思い当たる。
 生活を変えるには大きなエネルギーが必要だ。そんなパワーが自分にあるだろうか。枯れきった石のような心に問いかけるが、答えは否。
 ならばこのまま続けるかといえば、あまりに気持ちが離れていた。思い入れや愛情をごっそり失っているからうまくいっているのだ。なんとも皮肉な話である。
 示された新しい道は、ひどく魅力的に思えた。抱えてきた重荷を「得がたい才能だ」と言われたときの衝撃が、心の中でちりりと瞬いている。

「折原くん、この数字なんだけど」
 先輩社員に声を掛けられて、橘彦は我に返った。
「どっからきた数字かわかんなくて」
「ああ、ちょっと待ってください」
 この数日で見違えるほどすっきりしたデスクトップ画面から目当ての資料を見つけ出すと、簡単な説明を添えてすぐさま転送する。
「お、きたきたありがとう。ついでにこっちの処理もできる?」
 入れ替わりで寄越された書類にざっと目を通すと、心の内が口からそのまま出た。
「これ、僕の案件と関係ないですよね。部外者の僕より、そちらでやってもらったほうが早くないですか?」
 言い放って目を上げると、口を一文字に引き結んだ先輩の顔が見えた。感情を読むまでもない、どうやらやりすぎたらしい。
 一瞬血の気が引いたが、自分が関わればかえって時間がかかるのは明白だ。橘彦は角の立たないよう言い方を変え、少々苦心してその場をおさめた。
(つかれる)
 一服すべく席を立ち、飲み物を取りに行く。そのとき、シャツの胸ポケットで私用の携帯電話が鳴った。
 見覚えのあるようなないような番号である。
「はい、もしもし」
「あ、折原さんお忙しいところすみません、銀杏堂の森本ですが」
 ああ、とつい大きな声が出てしまう。
「先日はどうも」
「実はちょっと困ったことになりまして。できれば店までお越しいただきたいのですが、ご都合いかがでしょうか」
「えっ」
 僕なにかしましたか、と慌てる橘彦に対し、「そういうわけじゃないんですが」と森本は歯切れが悪い。
「とりあえず、行ったらいいんですか」
「そうしていただけると助かります」
「わかりました、仕事帰りでもいいですか。八時近くなると思いますけど」
「おねがいします」
 何事にも泰然自若としていそうな森本が、電話越しでもわかるほど焦っている。妙な胸騒ぎがして、その日はできるだけ早く仕事を切り上げた。
 街がざわめく金曜の夜、人々は週末に向かってそぞろ歩く。橘彦はその合間を足早にすり抜けた。

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