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​一、ある春の朝

 なにか恐ろしいものに追われている。
 駆けつづける一本道、左右を高い絶壁にはさまれて道幅は狭く、盤石にみえる地面はところどころ脆くなっており、踏み抜けば底知れぬ虚空が広がっている。あたりは光を吸い込むような黒にびっしりと覆われ、そのところどころが朽ちて綻びている。
 いつもこうだ。
 追っ手の正体はなんなのか、追いつかれたら何が起こるのか。何もわからないまま、ただ逃げ続けている。
 毎度同じ、繰り返し。
 変化に乏しい黒の道は、距離と時間の感覚を狂わせる。どこにあるかもわからない出口を目指すのもひどく消耗する作業だ。来た道を覚えることはとうの昔にやめていた。
 不意にがくんと姿勢が傾いで、はずみで顎が鳴った。もう何度目になるだろうか、見れば右脚が地面を貫通している。
 大きく吸い込んだ息で苛立ちをくるみこんで、腹の底から吐き出した。亀裂から足を引き抜くと、そのまま仰向けに身を投げ出す。
「つかれた」
 どくどくと脈が打つのを耳の奥で聴く。
 はるか頭上に光の帯、流れる雲でかろうじてそれが空だとわかる。ぬるい風が肌を撫でるにまかせ、上下する自分の胸をただ眺めた。
 じゃり、と音がして、顔の上に影が差す。とうとう追いつかれたのだ。こうなったらもうヤケで、鬼が出るか蛇が出るか、姿だけでも拝んでやろうと首を回す。
(俺?)
 その瞬間、世界がバチンと白く爆ぜた。

 *

 夢だ。
 動悸とともに目が覚めた。
 何度もみた夢だった。追われる夢は、精神が追い込まれているときに見るというが、このところ頻度が増している。
 真っ黒な壁に挟まれた道を、ひたすら逃げ続ける夢。
 橘彦は、今しがた止めたばかりの目覚まし時計をぼんやりと眺めた。
 時間通りに目は覚めたが身体が動かない。淡々と時を刻む秒針を目で追いかけるも、何の気力も湧かなかった。
 本来なら分刻みで支度をしているところだ。顔を洗って、着替えて、食パンを牛乳で流し込んで、歯磨きついでに前髪を上げて、時計がわりにつけておいたテレビに一瞬時間をもっていかれたことに気がついて、慌てて家を出る。
 たったそれだけ、毎日同じ繰り返し。
 そのはずだった。
 鳩尾のあたりで理性と本心が言い争いをしていて、それが胃の痛みとなってあらわれた。寝起きだと言うのに、疲れが身体の深いところまで根を下ろして、橘彦の身体をベッドに縫い止めている。
 頭の中だけが忙しなく、時間はただ刻々と過ぎていった。「行かなきゃ」と思うほど胃が重くなり、しまいには涙までこみ上げてくる始末。
 さすがに察した。
 これはダメだ。
(やすもう)
 思いついたら飛びつかずにはいられない。こんなことは人生で初めてだった。
 敗北感は決して小さくなかったが、それ以上におおきな安堵があった。
 一度決めてしまうとずいぶん気が楽になって、どっと決壊したなにかが枕を濡らしていく。
 折原橘彦、社会人四年目を間近に控えた春のことだった。

 *

 

 もともと人付き合いは得意なほうで、友達をつくるのに苦労したことはなかった。
 背の順で並べばうしろのほうで、勉強も運動も人並み以上にできた。なにかと代表に選ばれることも多かったし、高校は進学校だったので迷いなく大学へ進んだ。
 希望の学校にはすべて一発合格。親しい友人に「存在が嫌味だ」と評されたこともあった。それは橘彦自身も自覚するところで、反感を買わぬよう振る舞いには人一倍気をつけたが、しかしそれを苦にしたことはない。
 学校は楽しいところで、自分の居場所はもれなく確保されていて、だいたいのところで顔がきいた。庭と言ってもいい。周りの人間が自分になにを期待しているか手にとるようにわかったし、それに応えるに足る自信もあった。
――あれほどくっきりと見えていた道が、いまではもうどこにも見当たらない。
 何も考えずに、一番はじめに内定の出た会社に入った。
 仕事には矛盾と理不尽がつきものだ。それなりに夢と希望をもって働き始めたところへ、どうしても腑に落ちない事案がひとつふたつと出来する。割り切りも必要だと頭では理解していたが、橘彦のこころはこうした葛藤に慣れていなかった。
「努力は報われるもの」
「理屈は通るもの」
 社会に出るとそうはいかない。相手の期待通りを演じたとて、それが成果につながるとは限らなかった。
 状況も、要求も、刻々と変わる。
 自分が信じてきたものを曲げて縮めてひっくり返して、なんとか形を合わせる。
 橘彦はこれまで通ってきた道がいかに平坦に整えられたものだったかを思い知った。
 上司や同僚にあまり踏み込まれまいと、距離をとっていたのも仇となった。ふと息苦しさを感じて周りを見渡してみると、腹を割って話せる相手が誰もいないことに気がついた。
 自業自得、という言葉が脳裏を過ぎり、背筋に冷たいものがつたう。
 人の輪の中に入っていくのにどうしたらいいのか、いまさら見当もつかない。いつも誰かが手をひいてくれたことにやっと気づく。
 そんな学生時代の友人たちとも、休みが合わないことを理由に誘いを断り続けた結果、とうに疎遠になっていた。出口を失い吐き出せないままの翳りは少しずつ重さを増し、橘彦の心の底へ静かに沈んでいく。
 そして三日前。
「ああ、あれね。こっちでやったほうが早かったから、先進めちゃった」
 調整役を言い渡され、あちこちに頭を下げつつ進めていた案件が、クソ上司の一言で吹っ飛んだ。
 真っ白になったあとまず脳裏に浮かんだのは、他の仕事も抱えて忙しいなか依頼を受けてくれた内外の関係者である。すぐさま一人ひとりと連絡をとり、再び頭を下げて回る。みな苦笑を浮かべて受け入れつつ、しかしはっきりと浮かべた失望の色が橘彦の心を挫いた。
 彼らは悪くない。ただ、そこから立ち直る元気はもう無かった。
 ぽっかりと開いた空洞に、「なんで」という一言だけが所在なく浮かんでいる。

 

 *

 ひとしきり泣いて鼻をかむと顔のまわりがすっきり軽くなり、いくらか気分が持ち直した。
自分の気が変わらないうちになんとかベッドから這い出し、とりあえず顔を洗う。鏡の中に映った姿はひどいものだった。寝癖だらけなのは置いといて、泣いた上に手荒く拭ったせいで目鼻は真っ赤、目のまわりは黒ずんで肌のきめも粗い。寝起きというより徹夜明けと言われたほうがまだ信じられる。
 気合を入れて立ち上がったぶん、勢いがついている。さらに視界も一掃してしまうことにした。
 壁に揃えてかけておいたスーツはひとまず押入れの奥にしまい、仕事用の鞄も資料もよくわからないビジネス書も、みんな見えないところに押しこむ。玄関の革靴も回収したが、作り付けの靴箱はすでに満杯で、一瞬思案したのちにとりあえず風呂桶のなかに放りこんだ。
 そこまで一気に済ませてから、枕元に放ったスマートフォンを手に取る。なんだかんだで根が真面目なのだ、無断欠勤する勇気はない。
 上司に直接電話をかけると、すでに出勤していたらしくすぐに出た。鼻声を装って偽りの病状を伝えると、「ちゃんと病院行ってね。お大事に」とだけ言って忙しく切られた。
 拍子抜けした橘彦はぽかんと画面を見つめる。
 そのうちにじわじわと恥ずかしさがこみ上げてきて(なんだあの下手な演技)、しばらく毛布をかぶってのたうち回ることになった。
(さて)
 休むこと自体は自分に許したものの、通勤通学の時間帯はどこか後ろめたい。
 同じアパートのドアがバタンと閉まる音や子供の声、車の行き交う音がやけに大きく聞こえる。着替える気も起きず寝間着のスウェットのまま体育座りに毛布をかぶり、気を紛らわすためにつけたテレビの音量まで絞ってじっと息を潜めた。
 いつの間にか寝入っていたらしい。次に目を覚ましたとき、流しっぱなしのテレビは別番組に切り替わって、おもてはずいぶん静かになっていた。
 さすがに午前十時をまわると腹の虫がひっきりなしに鳴る。
(どんなときにも腹は減るのだ)
 ふとそんな言葉が浮かんだ自分のセンスに感心して、なんだか笑えてきてしまう。ひとりでふっと吹き出し、そんな自分に少しほっとした。
「あー、頭おかしい」
 笑う元気は残っていたようだ。

 冷蔵庫を開けてみたものの、ろくなものがなかった。
ここ数日自炊をする気などとても起きず、買い物にも行っていなかったので考えてみれば当然だ。賞味期限の過ぎた卵に、干からびたキャベツ、乾燥してドッグフードそっくりに変色したひき肉。にんじんはしなびて尻尾から溶けかかっているし、冷凍庫には化石しかない。何ひとつ食べられそうなものがなかった。カップ麺の備蓄はいくらかあるが、いま食べたらさらに胃が荒れそうだ。
「出るしかないか……」
 閉め切っていたカーテンをようやく引くと、四角い光がじわりとつま先を温めた。さあっと入ってきた風が意外につめたくてはっとする。どこからかかすかに梅の香りがした。
 シンクで歯を磨くついでに水道水だけ口に含み、着古したモッズコートを羽織って外に出る。
 錆びついた蝶番が、ギイと鳴った。

 こめかみにパチッと痛みがはしる。
 腹ごしらえもすんで、バス通りをぼうっと歩いているときだった。
 駅前まで出てみたものの、牛丼もファストフードもいまの橘彦には重すぎて、四個入のあんパンひとつとカフェオレでいっぱいになってしまった。そのことにすこしショックを受けつつ、家路についた矢先のことである。
 ちょうど書店のシャッターが開くところだった。正面のガラス窓には手書きの新刊告知がずらり、がらがらと音を立てて引き出されたラックにはたくさんの雑誌がにぎやかに並んでいる。
(本屋なんて、いつぶりだろう)
 本は一種のシェルターだ。
 文字を追っているあいだは誰しもひとり、本はなにも求めない。何者でもない、ただの自分でいられる時間。その感覚がふっとよみがえって、橘彦の心が浮き立った。
 抗いがたい引力を感じて、ふらりと足を踏み入れる。
 ちか、ちか、と目の端が光る。怪訝に思って見回してみるが特にそれらしきものはなく、構わず先へ進んだ。
 この書店、間口は狭いが意外なほど奥行きが深かった。雑誌、新刊、話題書、新書に文庫、参考書。奥の児童書の一角にはささやかなキッズスペースがある。
 ひととおり見回って満足し、戻ってくるのは文庫の棚だ。棚差しのロングセラーを懐かしんだり、平積みされた新刊を吟味したりといそがしい。
 店内には女性スタッフが二人きり、せわしく立ち回って橘彦のことなど気にかける様子もない。それがかえってありがたかった。
 自動ドアが開く音。他の客がやってきて、なんとなく棚の裏側に回った。奥からも誰か出てきて、二人で話しはじめる。どうやら常連らしい。
 たまたま目の前が官能小説だったので、勝手に気まずい。反対側を回ろうとしたらベビーカーで塞がれた。
 万事休す。
 元の通路を戻ろうと振り返ったそのとき、目の前で強い光が明滅した。絶え間ない火花に目が眩んで、橘彦はたまらず膝をつく。
 遠のく意識に火花はどんどん大きくなる。縦横にはしる稲妻の向こう、ぼんやりと見えた人影を最後に、橘彦は意識を手放した。

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