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クジラのことば

N書房/ゆきもと歩

クジラのことば

「おやすみなさい」
 そうママに言って、トオルはベッドにもぐり込みました。
 彼のベッドは普通のそれとは違います。船が好きな彼の為に、パパが作ってくれた特別製です。天蓋は低く作られていて、壁には小さな舵輪《だりん》——ママがアンティークショップで買ってくれた本物——があります。ここは世界にひとつだけの探検船『ブルー・スウラギ号』の船長室です。
 船長はもちろんトオル自身。仲間であるネズミの兵隊が枕元で見守る中、ふかふかの白いシーツにくるまると、あっと言う間に眠りに落ちていきました。

* * *

 ザーン……ザーン……
 だんだんと波の音が大きくなっていきます。
 突然手がヒヤッとして、トオルは目を覚ましました。見ると、パジャマの袖口が濡れています。もちろん、おねしょをした、なんて事はありません。
「ここはどこだろう。少なくとも、ぼくの家でないことは確かだけれど」
 トオルは首を傾げて辺りを見回してみました。
 家の中に居たはずなのに、空を見上げると星空に南十字が輝いています。潮のきつい匂いが辺りに立ちこめ、ベッドの縁には真っ黒な海の水が当たっては跳ね、戻ってはまた当たって散っていきました。
 静かな波の音の間に、不思議な音が聞こえます。低く、海の中から聞こえるのか、はっきりとした音をしていません。耳を澄ますとようやくというほど小さな音のため、聞こえたかと思えば波の高い音にかき消されてしまいました。
 パパ特製のベッドはそのままの形で、でも今は本物の船のように、波に乗ってゆらりゆらりと、トオルをどこかへと運んでいるようです。枕近くの柱には、見覚えのある舵輪が船の揺れに合わせて時折右へ、左へと小さく動いていました。操縦してもいないのに舵はきちんと船を垂直に保ち、カンテラも無いのに遠く夜に溶けゆく地平線が、トオルの目にはしっかりと見えました。
 でもそれ以外、周りは海が広がるばかりです。もちろん望遠鏡なんてありません。
 いったいどこへ連れて行かれるのでしょうか。
 トオルが不安に思っていると、南十字の近く、エータカリーナ星雲の方角に、一羽のカモメが飛んでいるのに気づきました。
「おーい! おーい!」
 大きな声と共に手を振ってみると、向こうもトオルに気づいたのか、ゆっくりと潮風に乗ってブルー・スラウギ号の方にやってきます。カモメは応えるようにひと鳴きすると、舵輪近くの柱に降り立ちました。
 白く、綺麗なカモメにトオルが見とれていると、突然足下から甲高い別の鳴き声が聞こえてきました。
「ヤァヤァ、我こそは偉大な冒険家にして世界一のトレジャーハンター、アレクセイ=J=ガランドゥール二世である。不思議な衣を纏う子よ、お前は何者だ?」
 そこに居たのは小さなネズミです。赤いベストに小さなゴーグル。腰には待ち針のような小さい剣を下げています。
「ネズミが喋ってる!」
 トオルが驚くと、その身体のどこから出しているのか、アレクセイはチーチーと大きな声で怒りました。
「ネズミではない! 我こそは偉大な冒険家にして世界一のトレジャーハンター、アレクセイ=J=ガランドゥール二世だ! まったく、ヒトをネズミ呼ばわりなど失礼極まりない!」
「おいアレク、そんなにキーキー喚かないでくれよ。おれはもうクタクタなんだから」
 柱に立って羽の手入れをしていた、カモメのロジーが迷惑そうに言います。
 アレクセイは鼻を一度フンッ! と鳴らすと、カモメに返事をすることなく、舵輪の上に駆け上り、腰をかけました。
「それにしても、子供がひとりでこんな暗い海に居るとは。もう一度名前を聞こう。そして、いったいどこへ向かっているのだ?」
「ぼくはトオル。それが、この船がどこに向かっているかはぼくにも判らないんだ」
 トオルが正直に答えると、アレクセイは驚いて髭をピンッと伸ばし、小さな丸い目を大きく開いて言いました。
「こんな立派な船を持っているというのに! ならばトオル、お前はソラクジラの話も知らず、この海域に居るのだな?」
「ソラクジラ?」
 トオルは首を傾げ、オウム返しに聞きました。
 舵輪からロジーの居る柱へひと飛びすると、アレクセイはまるで役者のように身振り手振りを加えて話始めました。
「今は昔。海を泳ぎ、空を飛ぶ、伝説のソラクジラが存在した。そいつは普通のクジラと同じように海を泳ぎ、まるで鳥のように空を飛んだ。その背にはいにしえの都が存在し、今もたくさんの宝が眠っていると言われている……」
 アレクセイの語りは素晴らしく、トオルは想像のソラクジラを簡単に思い描くことができました。
 これからどうなるのかという不安はすっかり消え、今はまさに冒険の始まりです。ベッドの船、アレクセイとロジーとの出会い。それにソラクジラの伝説。
 彼は船が好きなのと同じくらい、冒険小説が大好きなのです。物語のような出来事に、トオルの心は驚きと喜びでいっぱいになっていました。
「そのソラクジラは、今も存在するの?」
「もちろんだとも!」
 トオルの質問を、アレクセイは飛び上がって答えます。
「ただの夢物語だと笑う奴らもいるが、偉大なる祖父アレクセイ=J=ガランドゥール一世の日記にはこう記されている。『我々がチーズを生み出したニンゲンに敬意を払うように、ソラクジラもまた、仲間の言葉を喋る者には敬意を払う。まるで歌のように、そして愛を囁くように、チェアマン海域の真ん中で問いかけるのだ。』と」
「アレクセイはその言葉を知ってるのかい?」
 トオルがまた尋ねます。
 アレクセイは咳払いをひとつすると、数回喉を鳴らして調子を整え、にこりと笑って言いました。
「この言葉は少々難しい。偉大な祖父も一度しか正確に言えず、何度もソラクジラとの出会いを逃した」
 一度言葉を切り、もったいぶるように彼はまた話し始めます。
「そう、歌のように、愛を囁くように。この海域のどこかに居るソラクジラへと伝えるのだ。『チュー、チュ・チュー!』」
 アレクセイの「言葉」が辺りに響き渡りました。しかし、彼の祖父が記した「歌のように、愛を囁くよう」ではありません。軽やかなテンポはまさに歌のようでしたが、勇ましいその声は決して「ささやく」ようには聞こえないのです。
 誇らしげな様子のアレクセイを見て、ロジーが大きなため息をつきました。
「やれやれ、違う言葉になってるじゃないか。お前たち小さき戦士族にゃ、『ラ』の音を発するのは無理だって」
 アレクセイはロジーを睨みつけます。
「我々一族を侮辱するのか! 貴様ら海の鳥族など、この言葉を使うことすらできぬであろう!」
「当たり前さ。俺たちの口は、エサを獲るためにあるんだからな」
 さして気分を害した様子も無く、ロジーはアレクセイの言葉を受け流しました。
 二人のやりとりを聞きながら、トオルは自分も言葉を使ってみようと思い立ちました。
 一回目はアレクセイ言ったまま——彼には決して言いませんが、ネズミのように「チュー、チュ・チュー」と小さな声で。でもその後ロジーは「違う言葉になっている」と指摘しています。なので、これは少し違うようです。
 二回目は少し、舌を上顎で弾いてみることにしました。
「とぅる、とぅる・とぅー」
「やるじゃないか」
 聞こえていたのか、ロジーが驚いて言いました。
「トオルの方が上手く言葉を使えるようだ」
「ふんっ! だからと言って、こやつの言葉がソラクジラに届くわけなかろう」
 アレクセイがバカにしたように言います。
「その発音では『歌のよう』ではないであろう。もっと豊かに、息を伸ばすのだ」
 細い彼の尻尾が、まるで指揮をするように動き始めました。
 今度はその尻尾の動きを見ながら、トオルはアドバイスを自分なりに考えに、考え抜きました。
 アレクセイとロジーは少し興奮した様子で、トオルを見守ります。
 そして三回目。
 今度は舌を押し出すように、でも息は意識して優しく吐き出しました。
「ルー、ル・ルー」
 突然、辺りがいっそう暗くなりました。見上げると、南十字も、エータカリーナ星雲も見えず、真っ黒な空が広がっています。
「なんだ、あの黒い影は」
 ロジーが驚いて飛びあがりました。
「なんてことだ……! 二人とも、すぐ船にしがみつけ!!」
 アレクセイの甲高い怒鳴り声が聞こえます。
 高い波が船を傾け、そうして——

 ドンッ! と背中を強く打って、トオルは目を覚ましました。
 寝返りをしているうちに、柵の無いベッドの端まできていたようで、白いシーツと、枕、それからネズミの兵隊が、トオルと一緒に落ちていました。幸い床には青いじゅうたんが敷いてあったので、ケガはありませんでした。
「坊や、大丈夫?」
 真っ暗な部屋に光が差し込みます。トオルが落ちた音を聞きつけたのか、心配そうにドアからママが覗いていました。
「……ママ、アレクセイとロジーは?」
 トオルは思わずママに言いました。
 けれど心当たりのないママは少し首を傾げながら、寝癖のついたトオルの頭を撫でました。
「きっと夢を見ていたのね。さぁさ、お船に戻りましょう」
 ママに肩を押されるまま、トオルはまたベッドに戻ります。ママがシーツをかけて、落ちていたネズミの兵隊を、いつもの場所に置いてくれました。
「おやすみ、船長さん。良い船旅を」
 トオルもにっこり笑って、ママに言いました。
「おやすみなさい、ママ。ルー、ル・ルー」

END

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​自己紹介

N書房

ゆきもと歩

創作同人即売会COMITIAを拠点として主にオフラインで活動しております。YA向け小説中心にファンタジー、童話、ライトホラーなど、書きたいお話を書いていたら卓上がいつだって迷子なサークルです。





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