まだまだここから
NRD/ねるねるねるね
子供の頃、西嶋は自分の将来の夢について『林檎屋さん』と書いた。その夢は幼稚園、小学校、中学校と変わることが無かった。林檎をはじめとした果実を育て出荷している両親の姿を見て育ったのだ、自分もそうなることを信じて疑わなかった。
『双子で仲良く林檎を育てよう』
そんなことを話していた仲の良い双子が離れ離れになったのは、自分が進路を変えたからだと実感していた。
ずっとプロ野球選手になりたいと思っていたわけではない。高校三年の全国大会後、準決勝で敗退したとはいえ一人で投げぬいて来た西嶋の投球に興味を抱いたプロ野球チームのスカウトが高校まで偵察に現れたことで監督がプロ志望届を書けと言い出したのだ。
西嶋の女房役を担い、全国大会で主砲として活躍した東園と共に言われるがまま書類を書いた。その際、両親の署名が必要だったが父親は何も期待も抱かずに書類にサインしてくれたことを覚えている。
西嶋は大学に進学するつもりは無かった。野球は好きだが勉強は嫌いだ、わざわざ大金を払ってまで大学へ進学するよりも農家としてひっそりと過ごしたいと思っていた西嶋は、ドラフト会議当日も教室で普通に授業を受けていた。西嶋にとって座学は科目問わず眠いものだった、東園はドラフト会議が気になるとテレビが置かれている職員室へ行ってしまったが、西嶋にはそんな気すら起きなかったとき――我に返った西嶋は、ふっと顔を上げると、今自分が東陽スタジアムでまさに試合中だったことを思い出した。
あれから九年――自分はプロの世界に残っているだけではなく、一軍のマウンドに立てていることが夢のようだ。
実は今この瞬間が全て夢で、いつか目が覚めると考えることもあるが未だに目が覚めないのだから今自分がいるのは現実世界なのだろう。
(……もしもこれが夢なら)
もしもこれが夢なら、きっと杏夏と出会ったことも夢にされてしまうだろうか。それは嫌だと何となく考えた時、西嶋は背後から肩を叩かれたことでぎくりと肩を震わせた。
「わっ」
「何ぼうっとしてるんだよ」
「雄吾……」
声を掛けて来た人物が東園だと知り、西嶋は心底ほっとする。二軍生活が長かった西嶋にとって、一軍の面々は同じチームとはいえ目の上の存在だ。東園以外に気兼ねなく話せる選手も皆無のなかで、もしも話しかけられたらどうしようかと内心恐々としていたところだったのだ。
スコーピオンズが攻撃している最中、自分はベンチのどの位置に座って良いのか、そもそもどんな表情で座っていれば良いのか分からなかった西嶋は、グローブを手にベンチを出たところだった。東園に頼んでキャッチボールでも行い気を紛らわそうと思っていたが、無意識にぼうっとしてしまっていたようだ。
「ちょっと思い出してたんだ。昔の話……高校の時に僕がスコーピオンズから一位指名されたって、顔を真っ赤にして教室に飛んできたよね」
「だって驚くだろう。俺が教えに行ったのに、大然なんか他人事のような顔してさ、自分が指名されたことを理解しないんだから」
「自分がプロに指名されたことよりも僕の指名を喜んでくれたよね」
「おう。俺は自分が指名されるとは全く思ってなかったな」
東園は西嶋の問いかけに懐かしむような表情を浮かべる。遡れば彼とは小学生の頃からの顔見知りだ。まさかこの縁がここまで続くなんて、西嶋は勿論東園ですら思いもしなかっただろう。
「俺、仮にプロに指名されても、大然と同じチームじゃなかったら入団拒否してただろうし。大学に進んで、野球して、大然と同じチームに入る方法を画策していたはずだ。極端な話、選手ではなく球団職員とかな」
「大袈裟な」
「大袈裟じゃねえよ。俺はいつだって本気だぜ」
「……」
東園の言葉に西嶋は目を丸くする。実に東園らしい言葉だと、彼の性格が羨ましく思えるほどだ。しかし、彼は自らの発言を信じているだけではなく、発言を現実のものとするだけの努力も惜しまない男だ。そんな彼だからこそ今やチームの顔になれたのだ、ドラフト会議での指名順位なんて何の参考にもならないことを強く痛感する。
「俺さ、たまに思うんだよ。これは夢なんじゃないかって。夢が覚めたら別の俺が存在して、野球とは関係のないところで生きているんじゃないかってな」
「!」
――しかし、そんな彼が珍しく後ろ向きなことを話すので、西嶋の視線は思いがけず彼へと向けられていた。
「夢……これが夢か。でも、それだと困るな」
確かにそうかもしれないが、夢であっては困ると西嶋は苦笑する。
「そうだな。これが夢なら、杏夏ちゃんの存在も夢になっちまうからな」
「そ、それは関係ないって」
「あるだろ。大ありだ」
東園の含みを持たせるような発言に思わず西嶋は言い返すが、東園はそんな自分の姿を見て楽しそうに笑っている。ここが試合中のスタジアムではなく自宅で見せるような笑顔を見せて笑う東園の姿に、西嶋はばつが悪い表情を浮かべた時。
「ああ、悪い。からかいすぎたな。安心しろ、今は正真正銘の現実だ」
「ああ。夢にはして欲しくないな」
せっかく一軍のマウンドで投げられる機会を得たのだ、一球でも多く、一分一秒でも長くこの空気を味わいたい。そうすれば自分自身だけではなく東園も、きっと彼女も喜んでくれるだろう。自分のプロ野球選手としてのキャリアはまだ続くのだと、西嶋はこの景色を目に焼き付けた。