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暗夜線路

湖底路/米ノ原

暗夜線路

 目を開くと、開け放たれた扉があった。
「まずい、閉まる!」と、男は慌てて飛び出した。それから間もなく扉は閉まった。尾灯が暗闇に軌跡を描いて遠ざかっていく。辺りを見回せば、自分一人。出口へ向かうエスカレーターなんてどこにもない。頼りない蛍光灯に虫たちが集う。あるべき景色とは、似ても似つかないものであった。冷や汗が背中を伝う。答え合わせのために、吊り下げられた駅名標を見上げる。呼吸が乱れていたのは、急に動き出したからだけではない。

 寝過ごした。

 男は一旦ベンチに腰掛ける。そこで我を取り戻した。

 やってもうた。この一言以外にない。流行り病もぼちぼち落ち着いてきたというところで、飲み会のある日常が復活してきていた。しかし、体はすっかり飲み方を忘れ、寝過ごしてきたというわけだ。いや、違う。寝過ごしたのは俺のせいじゃない。流行り病による利用者減少をダシにしたダイヤ改正のせいだ。本来、我が家の最寄り駅止まりの電車が最終電車だった。それがダイヤ改正で、さらに奥の、車庫の最寄り駅行きが最終電車になってしまった。元々の行先であれば、寝過ごしようがなかったのだ。途中の駅で乗り換えも必要になってしまった。途中まで一緒にいる同僚がいたから良いものを。

 駄々や屁理屈をこねたところで、現状を打破できるのであれば、みんなそうしている。できないのに駄々をこねるから、クレーマーになるのだ。……、さっきの飲み会での愚痴大会の影響かな、今はクレーマーなんてどうでもいい。何とかして家に帰らなければいけないのだ。駅員もいない。ロータリーに出ても、タクシーはなし。せめてもう一駅乗り過ごしていれば、他の私鉄との乗換ができる大きな駅だったから、希望はあったのに。とはいえ、今から向かったところで、タクシーも出払っているだろう。野宿を決めるには心もとない。嫁たちからなんと言われるか。打つ手はなさそうだ。歩こうか、家まで。山間部まで来たから、帰りはおそらく下り坂、一応四時間も歩けば帰れる見込みだ。
ロータリーを出て左に進む。百メートルほどで、踏切にぶつかる。踏切の真ん中で、線路の先を眺めても、電車がくるはずはなかった。代わりに、小さな怪しい二つの光が見え、それらは線路を伝って、ゆっくりこちらに近づいてくる。こんなところに何の獣がいるのだろうか。答えは一頭の鹿であった。鹿は俺の顔を一瞥し、きた線路を引き返していく。もしかして、俺を案内しようとしているのか。無茶な考えかもしれなかったが、一人で真夜中を歩き通すのは、不安でしかなかった。藁にもすがりたい、猫の手も借りたい、鹿の案内も欲しい、そういう状況であった。線路上を歩けば絶対に道に迷わなくていい。鹿の後をついていっても、特に嫌がるそぶりを見せなかった。
 枕木の間隔と、俺の歩幅が絶妙に異なるので、鹿に離されかけていた。線路内を歩いたことなんてないのだから。流行り病で世の中が変わる、さらにさかのぼること数年。大地震が朝の通勤ラッシュを直撃し、多くの同僚が、電車から降ろされ線路沿いを歩いたという。その頃の俺はというと、既に出張へ向かう新幹線の車内で爆睡していた。危機的状況だからこそ、同じ体験をしていないのは少し寂しいものがある。ヒールを履いた女性が歩きにくかったと言っていたのは言わずもがな、この歩幅がネックだったと皆、口を揃えていた。歩くための道じゃないんだから、そりゃそうだろう、と笑い飛ばしていた自分を殴りたいと思った。夜露に濡れた線路は、滑りやすい。滑って転んでレールに頭をぶつければ、洒落にならない。慎重に、でも急いで歩を進めていく。
橋にある、点検の係員用かの狭い通路を一つ、二つと越えると、初めてのトンネルが出てきた。この先いくつのトンネルがあっただろうか。親世代が子供の頃は、川沿いを走る路線だったのが、いくつものトンネルで山を貫くようになったという。つまり、線路沿いこそが、最寄り駅までほぼ最短距離だと考えられる、ということだ。
 カツンンンと、どこまでも反響していた足音が、徐々に空虚なものになっていき、一つ目のトンネルを脱出する。暗闇にもかなり目が慣れてきたので、スマホのライトは極力使わないで歩けている。万が一のために、充電を残すに越したことはない。
 続いて二つ目のトンネル。こちらは先ほどに比べて短かった。続いて三つ目のトンネル。やや長い。無機質なトンネルの壁に囲まれると、本当に進んでいるのか、わからなくなってくる。車の運転でも、トンネル内は速度が落ちたように感じるから、歩きでもそういうことなのだろう。たまに見えてくる信号機との間隔だけが、距離感覚の頼りだ。目の前を歩む鹿が背中に俺を載せてくれたらもっと楽になったのだろうか。砂漠のラクダのように。
 そして、四つ目のトンネル。上から垂れてきたしずくに、変な声を出してしまう。そこから鹿との距離が広がって縮まらない。悲しい。だってびっくりするじゃないか。
 さらに、五つ目のトンネルを通っていると、駅のホームにさしかかる。トンネルの合間にある珍しい駅だった。ハイキングコースの最寄り駅として有名で、その時期になればここへ向かう愛好家たちが、うちの最寄り駅にもたくさん集まっていたように思う。ホームはまだ続いていたが、トンネルが一旦切れ、周囲に景色が広がる。川のせせらぎをBGMに、頭上には満月、後を振り返れば紅葉色づく山。疲れかけていた足を癒すには、贅沢すぎる景色であった。しばし、休む。ホームの中ほどに、待合室もあったので、ベンチに座って、ふくらはぎを揉んだり、ストレッチを行ったりする。出発してから、ようやく隣の駅に着いたわけだ。しかしながら、最寄り駅まではあと二つも駅がある。あまり休んでいると、お尻に根っこが生えるという例えのように、ここから動けなくなってしまう。鹿も待ちくたびれているだろう。おや、さっきまでいたはずの鹿は? また元のトンネルへ引き返していく影をなんとか見ることができた。できれば、せせらぎをくれる川に架かる高い橋を、一緒に渡ってから帰って欲しかったのだが……。別れの挨拶もできなかったし。かといって何と呼べばよいのか。鹿の先導は諦め、腹をくくって、今までで一番高い橋を渡る。渡った後の心拍数の上がり方ときたら、健康診断で確実に引っかかるに違いない。まだ三十代なんだ。飲み過ぎ以外に指摘項目を増やしてたまるか。心拍が安定するまでの少しの間、ちょっとしゃがんで線レールに耳を近づける。中学の理科の授業だったと思う。絶対に真似したらあかんで、という前ふりの上で、先生は昔、線路に耳を近づけて、電車が来る音を感じて、来る前に逃げる、そんな遊びをしていたという。固体の方が、音が伝わるのが早いから、思ったより逃げるまでに時間があったんだったか、そんな内容だったと思う。まさか、線路を歩くから、電車が来ないことの確認をするために、この年になって、こんなことをするとは思ってもいなかった。ひょっとしたら、保守点検の車とか、回送列車とか、来たらどうしようかと思ったが、レールから聞こえる音はいたって静かだった。胸をなでおろし、再び歩きだす。またすぐにトンネルに入る。
 このトンネルは今までのトンネルよりはるかに長い。カーブを抜けてから、果てしない直線が続く。カーブの方が進んでいる感覚があったから助かったのだが。ちょっとふざけてヤッホーなんて叫んでみたりする。ここまできて点検の人がいる可能性なんてないだろう、見つかることはないだろう。ただ、先導の鹿がいない現状、いささか寂しいのも事実。スマホを手に持つ。電波は通じている。充電は思ったより少ない。20%を切ったところか。バッテリー交換もしておけばよかった。緊急時にこれではスマホの意味がない。あれこれ悩んだ末に、時報を流すことにしたが、眠気を誘発するので3分ほどでやめにした。トンネルはまだまだ抜けそうにない。ホームにあるのとは全く別の、駅名が記された看板が線路左脇に見える。そこから駅までが短いという訳ではない。おそらく電車がブレーキをかける目印とかそういった目的の看板だと推測する。長い距離をかけて止まるんだな。ああそうか、下り坂だから余計にか。看板を見かけてからさらに数分歩いて、ホームの端が見えてくるる。足音も響かなくなる。トンネルも抜け切ったようだ。ホームの長さを歩くときだけは、少し足取りが軽い。この調子であと二駅分歩けば最寄り駅だ。何なら家に帰るには、駅の手前の踏切から公道に出ればよい。少し希望が浮かんだ頃、足音がよく響くようになり、またトンネルに入る。ホームの端はまだこの先にある。
カツンンン、カツンンン、うう、カツンンン。
ちょっと待て。とあるテレビ番組で芸人がVTRを止めるがごとく、歩みを止める。足音とは別の音が聞こえたような気がする。誰かいたか? 気づかれてしまったか? 「うう」これはうめき声か。見つかってはいけない人ではなさそうだ。「おーい」こちらから呼びかける。その上で、なけなしの充電でスマホのライトをつける。自分でも一瞬目がくらみそうになった。辺りを照らす。ホームの下か? 歩いているのとは逆のホームも照らす。するとホームの下に何か動くものが見える。線路を渡り、近くに寄る。人だ。近くにその人のものと思しきかばんもある。少し酒臭い。酔ってホームから落ちたのだろう。ひょっとしたら、自分も乗っていた最終電車のあの後で。……だからどうする。救急車を呼ぶことは簡単だが、それでは通報者の俺の身分が怪しい。無視して行くか? 駅員か、電車の運転士が気づくか? 始発までに俺がここにいるか? それまで、この人が何もない保証はあるだろうか? 見殺しにしない保証があるだろうか? それまでの疲労とかから来ていた眠気もすっかり覚めた。頭はフル回転している。すると、線路から転落したことに数日間気づかれず、さらに轢かれて亡くなったという過去のニュースが頭をよぎる。確か、その事故では家族が捜索願を出していたんだったか。一刻も早く家に帰ってきてほしいのが、家族の立場だよなぁ。
 今、俺のこの手には現状を変える術がある。スマホのロックを解除せずに、緊急通報の文字をタップする。
迎えを呼ぼう——、二種類の車。

※おことわり※
線路内に立ち入る行為は法律で禁止されています。くれぐれも本作品の真似はしないでください。

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​作者

​自己紹介

湖底路

米ノ原

迷子から得られる人生の教訓をどうぞ、なんてかっこつけようとしている小説未満作文以上を書く見習い。鼻で笑ってもらえることが本望。鉄道擬人化でも活動しています。



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