十一月とともに過ぎゆく(試読版)
Our York Bar/泡野瑤子
十月三十一日
休職願の期限が来る前に、退職願を出した。伯母さんから別の仕事を頼まれたからだ。
十月の初め、出社の時間を過ぎてもベッドから出られなくなった僕は、いよいよ観念して会社に電話をかけた。
「僕、どうやらもうだめみたいです」と言ったら、電話の向こうの上司は「ええ……」と弱々しい声を上げた。困惑半分、さもありなん半分の声だ。
入社してから三年半、毎日残業続きで、休日出勤や終電を逃して会社に泊まることも少なくなかった。夕食としてコンビニ弁当や菓子パンを腹に詰め込み、家に帰ったら寝るだけの生活だった。むしろよく三年半も持ったともいえる。僕は自分の体力と根性に、一度たりとも自信を持っていた覚えがないのだ。
心療内科の先生に診断書を書いてもらって、一ヶ月休職することになった。
休めるといっても、完全に心が安まるわけではない。復職を目指すか、それとも思い切って辞めるか、休職中も考えなければならなかった。
長野の実家の両親は、「そんな会社さっさと辞めて、しばらく戻って休め」と言った。僕もいったん休んでみると、もうあんな会社に戻るのは絶対に嫌だという気持ちになった。
とはいえ、このご時世である。辞めた場合、次の仕事がすんなり見つかるとは思えない。まして僕は大した経験もスキルもないまま病んでしまった身である。
いまのところ両親は優しいが、いつまでも無職のままだったら、やがてお荷物扱いされるのではないかと考えてしまい、そうやすやすと甘える気にはなれなかった。
今後の身の振り方に結論を出せないまま、徐々に期限の一ヶ月が迫ってくるのを感じはじめた十月の半ば、伯母さんから電話がかかってきた。
伯母さんは裕福な未亡人で、東京の西側で不動産会社を経営している。いわく、かつて祖父母が住んでいた古い家がいま空き家なので、買い手が見つかるまで住み込みで管理してほしいとのこと。
管理といっても難しい仕事はなく、掃除したり、傷んだ部分があれば修繕したりするくらいで、あとは普通に生活しているだけでいい。水光熱費や通信費は伯母さん持ちで、そのうえ月給までくれるという。
「まあ古い家だし、交通の便も悪いし、買い手なんかすぐに見つかるとは思えないけどね」
そう言って伯母さんはけらけらと笑った。
つまり伯母さんは仕事を任せると言いながら、病身(病心?)の僕を養ってやろうと言ってくれているのだ。
「ありがとうございます。僕に務まるのでしたら、ぜひ」
僕は一も二もなくその仕事を引き受けることにした。
会社は十月末日付で退職。いま都心に借りているワンルームの部屋も同日付で退去。退社や引っ越しに関する慌ただしい手続きは、伯母さんがずいぶん手伝ってくれた。
そして翌十一月一日から、僕は管理人の職と新しい住居を得ることになったのである。
十一月一日 鍵
新宿から出発した電車は西へと僕を運んでいった。
久しぶりに駅のホームに立ったときは嫌な汗をかいたが、幸い行き先は前職のオフィスがある街とは逆方向だ。
ありったけの荷物を詰めたスーツケースは網棚に乗せた。ガラガラの座席に腰掛けた瞬間、僕はほっとした。電車に乗れた、ただそれだけのことに。
車窓からの風景は徐々に商業的な毒気を失い、気取りの少ないありふれた街並みへと様変わりしていく。最初は暇つぶしにと買った文庫本を読んでいたが、安らかな気持ちになって、ついつい居眠りをしてしまった。
――おい、旬(しゅん)君、起きないか。
誰かに名前を呼ばれた気がして、はっと顔を上げる。
危うく乗り過ごすところだった。僕はスーツケースを抱えたまま、閉じ始めたドアから転がるように抜け出した。
「旬君、こっちこっち」
待ち合わせしていた午後二時、伯母さんは駅のロータリーに白い軽自動車を止めて待ってくれていた。母の姉だからもう六十代半ばを過ぎているはずだが、僕なんかよりずっと元気いっぱいだ。
「わざわざすみません。僕はバスでもよかったんですが」
「バスだと不便なのよ。近くに学校があるから朝と夕方は多少本数あるけど、昼間は全然」
「そうなんですか」
見た感じ、駅前はそれなりに栄えている。急行も止まる駅だ。バスだってひっきりなしに着いてはまた出発しているのに、僕が向かう空き家の方面に向かうものはないらしい。
「お昼は食べたの?」
「新宿で食べてきました」
「そう、よかった。伯母さん夜は用事があってご一緒できないんだけど、あなたの分お寿司の出前予約してあるからね」
「ありがとうございます」
申し訳ないくらい至れり尽くせりだ。恐縮しつつも、久しぶりの「寿司」という響きに心は小躍りしている。
伯母さんの車は、駅前の繁華街を過ぎて閑静な住宅地へ、それも過ぎるとぽつぽつ畑や田んぼが増えてきた。
「田舎でびっくりしたでしょう? これでも都内なのよ」
確かに車を降りたときの風景は、「東京」という地名からイメージするものとはほど遠かった。周囲には畑や田んぼ、駐車場や木工所の製材置き場があり、隣の家は数百メートル先だ。遠くには山が見える。山を見るのは久しぶりだった。都心からは、山が見えない。
僕が住み込みの管理人を務める「空き家」は、都内の家に比べると庭がずいぶん広いという以外には、これといって形容する言葉のない、ごく普通の二階建ての一軒家だ。玄関の外壁は煉瓦を模した臙脂色のタイル張りで、どことなく時代を感じさせる。けれども中に入ってみると、家電は割と最近の型のものばかりだった。食洗機やノートパソコンもあるし、インターネットも使える。洗濯機は乾燥機つきのドラム型だ。
「おばあちゃん新しもの好きだったからね。おじいちゃんの遺産もそれなりにあったみたいだし」
伯母さんが笑う。少し寂しそうだった。
「使えそうなものは自由に使って。いらなければ処分してくれていいから」
祖母は昨年末に亡くなった。夜に眠ったまま、そのまま目覚めなかった。たまたま泊まりに来ていた伯母さんがそれを見つけた。
最新型の電子レンジは、亡くなる直前に買ったものらしい。まさかろくに使わないまま、自分が死んでしまうとは思わなかったのだろう。
「トイレはこっち、お風呂はこっち、このボタンで沸かせるからね……」
伯母さんは必要な説明をてきぱきと済ませた後、僕に玄関の鍵を預けて帰っていった。
さて、と居間のソファーで一息つこうとしたそのとき、突然背後から男の声がした。
「やあ、こんにちは。大沢旬君」
僕は思わず「きゃーっ」と叫んでしまった。
十一月二日 屋上*
*
鍵が壊れていて屋上のドアはいつでも開けられることを、みんな知っていた。
十一月三日 かぼちゃ
そろそろ昼食の時間だ。
伯母さんは、キッチンにたくさんの食材を用意してくれていた。
ここは東京にしては田舎だが、やはり東京は東京である。少し歩けばコンビニはあるし、地元の小さな食料品店もある。スーパーは少し遠いものの、ネットスーパーを利用すれば配達もしてくれる。食糧の調達には困らない。
それでも伯母さんが肉やら野菜やら、調理しないと食べられない食材を用意してくれたのは僕の心身を気遣ってのことなのだろう。大学生のときは多少自炊をしていたが、社会人になってからはまるっきりご無沙汰だ。僕任せにしていると、すぐコンビニに走って栄養の偏った食事に明け暮れるに決まっている。
せっかく仕事を辞めて、時間に余裕があるのだ。ちゃんと料理を始めてみよう。僕にとってはちょっとした冒険である。もしストレスになるなら、やめてしまえばいい。
僕は居間でノートPCを起動してみた。用意された食材で作れそうな料理レシピを検索してみる。
「うむ、よい心がけだな、旬君」
……出たな、幽霊め。
僕は思いきり顔をしかめて背後へと振り向いた。
「あなたへのお供え物はありませんからね」
「かまわんよ。食物とは生ける者の糧だろ」
ソファーの後ろに男が立っていた。いや、浮いていた、と言うべきか。
黒いTシャツと、ところどころ破けたジーンズというラフな出で立ちの彼。一見四十代半ばくらいのおじさんだが、よくよく見ると足がない。膝から下が透けて見えないのだ。
都会の喧噪を離れ、自然豊かなこの地で管理人としての悠々自適のひとり住まいが始まるかと思いきや、なんと幽霊のおじさんが現れたのである。
「いったい何なんですか、あなたは。なんで僕のところに化けて出てくるんですか」
「おとといも言ったじゃないか。私は何にも覚えてないんだ。自分の名前も覚えてないし、この世に未練があったかどうかも定かじゃない」
設定が軽いんだか重いんだかよく分からない、困った幽霊である。
「なあ旬君、名前がないってのも不便だから、さしあたって私に仮の名前を付けてくれないか」
幽霊はソファーの背もたれから身を乗り出し、僕の耳にささやきかけてくる。
背筋が粟立った。幽霊のささやきというだけでもおぞましいのだが、この幽霊おじさんは自分の名前を覚えてないくせに、どういうわけか僕の名前は初めから知っているのである。
「別に不便じゃないでしょ。あなたを名前で呼ぶ人なんていないんだから」
危害を加えてきそうな気配がないので、僕も強めに応対する。
「そうか。……確かに、それもそうだなあ」
幽霊はそれきり黙って、文字通り姿を消してしまった。
僕はひとつため息をついた。ちょっと言い過ぎたかもしれない。
気を取り直して、料理を始めることにする。まずは簡単なレシピを選ぶことにした。フライパンひとつでできる炒め物や、電子レンジでできるものがいい。
検索して気づいたことだが、レシピは二人分か四人分の分量で書かれていることが多い。一人分のレシピは案外見つかりにくいものだ。
幽霊おじさんの顔が脳裏によぎって、僕はまたため息をつく。
料理を始めてみると慣れない作業の連続で、「10分でできる」はずの肉野菜炒めに小一時間かかったり、乾燥ワカメの分量を間違えて味噌汁ならぬ味噌ワカメができてしまったりしたが、どうにか食べられるものを作ることができた。
作った量の半分だけ盛り付けて食卓に並べると、「おいしそうだな」とまた声がした。食卓の向かい側に、おじさんが頬杖を突いて座っている(今度は、浮いてはいないと思う)。
「二人前作ったんだな? もしかして私のためか?」
「違いますよ」断じて違う。「何回も料理するの面倒だから夜も同じもの食べるんです。だいたい、お供え物はいらないんでしょ」
「そうだった、そうだった。いいなあ、生きてるってうらやましい」
おじさんはわざとらしく肩を落としてみせる。
僕は三度目のため息をついた。
「……シモツキさん。シモツキイチロウ」
「ん?」
「仮の名前が欲しいって言ってたじゃないですか。あなた十一月一日に現れたから、霜月一郎、でどうです」
思いつきで口にした適当な名前だったが、おじさんはぱっと表情を輝かせた。
「ありがとう、旬君……!」
「ちょっと、食事中なんですけど」
身を乗り出してすり寄ってくる幽霊おじさん――改め、シモツキさんは、実際に僕に触れることはない。ただなんとなく生温かい風を感じるだけだ。いずれにせよ、いい気持ちはしないのでのけぞって避ける。
キッチンの端に、今日は使わなかったかぼちゃが鎮座している。明日はあれを使ってみよう。