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飛空艇はやってこない

庭を守る係活動 /係員

飛空艇はやってこない

 掬(きく)がいつも使っているのはサクラクレパスのレトリコのボールペン。色はクラウディブルーでニードルペン先が0.4ミリ。値段は三百円税別。ノートはコクヨーのソフトリングノートを使っている。色はブルー。サイズはA5サイズでなかはドット入り罫線のもの。三一〇円税別。このシリーズのノートを四冊ほど持ち歩いている。大学の講義用と、雑談用に一つずつ、それと他に二つ。
「そういえばね、これは前に見たドラマの話なんだけど――」
 机の上に広げた講義用のノートに『吉村先生の今週のドラマ』と書く。隣の学生が大あくびをしているが、掬はそれに気づいていない。面会に立ち会っている刑務官のように、吉村先生の声に集中してまじめに記録していく。日常のメモノートの内容は掬が興味ある範囲だが、もう一つの講義用には先生が喋る内容をあらかた文字に起こしていく。吉村先生が紹介する映画やドラマ、本は掬にとってハズレはなかった。
『見どころ→日本における愛情表現の仕方(ふたりが見つける方向)』
 吉村先生がつくるスライドは枚数が少ないうえに、一枚に書かれている文字の情報量が多い。しかもすべて黒色で書かれているからどこが重要かは受講している学生たちの判断に任せられている。なによりアドリブの雑談内容はスライドに書かれていないが、講義のなかで一番重要なポイントになっている。講義で取り扱った技巧を上手く利用している作品を、彼から見た個人的な評価と学ぶべきところをピックアップして紹介してくれる。
 チャイムが鳴ると、吉村先生は「また来週」と言って講義を締めくくった。それを合図に掬はノートとペンをポーチのなかに入れ、余った上の部分をていねいに折ってリュックのなかにしまい込んだ。本日最後の講義が終わり、学生たちが一気に教室から出ていく。掬もそのうちの一人で、学校から徒歩五分圏内にある自に向かって足早に帰っていく。
 十八時二十六分、掬は自宅に戻るとすぐに自室に向かい、パソコンを起動させてドキュメントを開く。各ファイルにそれぞれのノートに書いた内容を写すのが夕方の日課だ。「地図.docx」を起動させ、その間にポーチのなかから雑談用ノート①を取り出す。このノートは受講している授業の雑談中に挙げられた作品をメモするためのノートで、本や美術品、映像作品に音楽、展覧会など、ジャンルは問わずメモを残している。気になったものは買ってみたり、見にいったりして、その時の感想もまたこのファイルにまとめるようにしている。
 上書き保存をし終えると、「地図.docx」を閉じて別のファイルを開く。ファイルが画面に表示されると、人差し指と中指でタッチパッドを使って何度も下にスクロールしていく。最深部へ行こうとするこの動作を何度も続ける。最新の情報がある深海まで十四回スクロールをしてようやくたどり着き、今日いろんなノートの片隅に書いた短文を書き込んでいく。これを繰り返し更新することでさらに地盤は深くなってゆく。掬はこれを「海.docx」と名付けていた。
『2/  のなかで/あなたが残していった/足跡は/あなたの   にふさわしい//なにもない/ のなかで/あなたの   にふさわしく/唇から洩れて/溢れでる   よ///     あなたをなにが/わたしの目の前につれてきたか』
 掬は短文を書き終えるとすぐにコントロール+Sを押して、椅子から前のめりになりながらしばらく眺めた。一度大きく伸びをして「海.docx」を閉じて「日記.docx」を開いた。しかしファイルを開いたものの、掬は一向にキーボードを打たなかった。すると掬は目をつぶって、うなりながら横に揺れ始めた。口からは唸り声が漏れている。掬は保存ノート⑤に手を伸ばした。保存ノート⑤には、雑誌や新聞で惹かれた一節や、面白いと思ったキャッチフレーズを切り抜いて貼って保存している。切り抜かれた言葉を見て、もしかしたらこんな物語があったのではないか、あるいはこんな意味を持って生まれたのではないか、と人の名前の由来を考えるのと同じくらいに掬は想像力に長けていたから、小さいころからよくこういった遊びをしていた。収集保存されたことばたちを眺めていく。収集保存を待ち望んでいるページまで進むとノートを閉じて、ゆっくりとキーボードに向かって腕を伸ばした。ゆっくりと今日の日付を入力していく。
『吉村先生の授業は%で@。あんな有意義な授業は吉村先生だから成り立ってるようにも思える。
 0をたまたま見かけて、*だったので今日は△。これは絶対。やっぱり0は×だ。0を見ると、◎なわたしはすぐに〇になってしまう。もう少し、耐性をつけないと。』
 掬の書く日記は三、四行程度で終わる。それくらいの分量にしなければ彼女はずっとその日の出来事をどう表現するかで悩んでしまう。
 日記を書き終えて深呼吸をした掬は、近くに積んである本の一番上にある、ふせんが大量に貼ってあり、表紙がぼろぼろになった本を手に取って適当に開いた。本に出てくることばはほとんどが小学生でも知っているくらいやさしいものだ。しかし、この場を表現するのはこの子たちです/私たちです、と言うくらい作者とことばには絶対的な信頼がある。そこに掬は憧れていた。
 ページをめくっていくうちに掬は目を細めてゆき、やがてまぶたを閉じた。床に敷いた布団の上に身を任せるように倒れる。布団の中心部分へ身をよじって移動すると、掛け布団にくるまって憶えたことばの羅列を、息をしながら暗唱する。声にならないようなことばで呼吸をするように意識する。
 何度も繰り返していくなかで、途中で別の作者の文が脳裏によぎって息を吸うのをやめた。鼻がじんじんしてきてあくびをすると、涙が出てきた。目尻から頬へ耳から髪にかけて、上体を起こしている時とは違う方向に涙は流れていく。掬の体内から出てきたはずのものは冷え切っていたが、布団のなかは掬の体温であたたかくなっていた。
 冷え切った涙が微かに痕になっているのに気がついたのは、二十時に母親にお風呂に入りなさいと叩き起こされた時だった。



 掬は毎朝六時に目を覚ます。母によって用意された朝ご飯に合掌をして味わって頬張っていく。ごちそうさまでした、としっかり声にして使った皿を洗っていく。それから洋服に着替えて、テレビで天気予報を確認する。それから録画しておいた一九八七年の海外のコメディドラマを見る。藍色のチェスターコートを着て、七時十五分にはアパートを出た。
 大学へ向かう前にかならず反対方向にある公園に行くのだが、その途中で、集団登校中の私服の小学生たちの列と出くわすのが日課のひとつになっていた。野球部が使うような大きなエナメルショルダーバッグを持った先頭の少年が班長である区域の登校班と毎回出会う。先頭の少年はランドセルの左フックにかけてある体操服入れを、犬や猫を撫でる時と同じくらい慎重な手つきでやさしく撫でていた。表情を見ていると、他の児童と比べてなんとなく穏やかで落ち着きのある少し大人びた少年のように見えた。
「なあススム」
 班長の真後ろにいる別の少年が、だれかの名前を呼んだ。すると先頭を進んで歩いている班長が反応し、後ろを振り向いた。もうすぐ彼らとすれ違うことを掬は意識していた。ふたりの会話に耳をすませる。
「ん、どうした」
「ススムの漢字って、前に進む、のススムだっけ」
「なんで急に」
「ススムの漢字ってむずくて説明できなくてさー。なんていう字?」
「山崎烝のススム」その部分が特に掬の耳に響く。色とりどりのランドセルを背負った小学生たちの列は掬の隣をすり抜けて、どんどんと小学校に近づくように歩みを進めていく。最後に聞こえたふたりの会話は「だれだよそいつ」「新撰組のかんさつ」だった。
 ふと掬は先輩にあたる人の顔を思い出した。だれにも聞こえないくらい小さな声で名前を呼ぼうとしたが、想像しただけで鳥肌が立ったから、そっと舌に力を入れて、しかし声に馳せずに口のなかで名前を呼んだ。
 掬はスマホのメモアプリを開いて、「海.docx」に書く内容を書き始めた。
『2/   決めるとき/理由は    //  ひかりだったりする』
 公園に着いたのは七時三十二分だった。誰もいない公園に風が吹き、鈴の音のようなまっすぐな冷たさが掬の髪をなびかせ、ブランコもまた揺れていた。掬はその風に背中を押されて公園の中に入っていった。緑廊(パーゴラ)の下にあるベンチに座り、掬はリュックのなかからペンとつい二日前に買った小説集を取り出して、冒頭から読むことにした。はじめはすきな表現の隣に線を引っ張っていくのだが、だんだん物語に没頭してその作業がおろそかになってゆく。まばたきも少なくなって、代わりにページをめくる速度がはやくなっていくと同時に、目にも薄い涙の膜が張っていく。冒頭を飾る短編を読み終えて、こぼれる前の涙をさっとハンカチで拭いていると、だれかが立っていることに気がついた。老人8だった。いつものように挨拶をする。いつものように、と言えるほどいつから言葉を交わすようになったのか掬は思い出せなかったが、今は彼に会うために公園に来ていると言っても過言ではない。
「すみません。声かけてくれたらよかったのに」
 ハンカチと本をリュックの中に入れて、掬はベンチの左端に寄る。
「読書の邪魔はできんよ」
 老人8は空いた掬の右横に手提げ袋を置いて、息を吐きながらゆっくりとベンチの右端に座った。
「小説は空き時間にはもってこいだからね」
「そうですね。本を読んでたら遅刻されても、何も思わなくなりました。むしろもう少し、あとちょっと、が続きますね」
「良い時間の使い方だ」
 いつも通り手提げ袋から水筒を取り出した老人8は、紙コップを出して水筒からあたたかいお茶を入れていく。湯気が朝の空気と触れ合い、太陽の光と混ざってきれいに姿を現す。湯気が一番美しくあれるところは空気が澄んだ冬の日の朝の外、つまりここも対象であるということを掬はよく知っていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 掬に紙コップを渡すと、老人8は次いでもう一つの紙コップにゆっくりと正確にお茶を注いでいく。
「書くことは続けているのかい?」
 掬は両手で静かに紙コップを揺らした。水面に写っていた自分の顔が歪んでいくのがわかる。
「続けていますね。なんか四六時中ずっと、なにかを考えています。いや、探してる、か」
 紙コップが熱を纏っていき、掬は手のひらをやけどしないように持ち方を変えていく。湯気が顔にあたると張りつめているような表情が少し緩む。掬はコップを両手で持ち上げて、ゆっくりとお茶を一口飲んで、老人8の方を見る。遠くの空を見つめる彼の瞳がどこか青く見えたような気がして、彼女もまた空を見上げた。透き通った空気が漂うにふさわしい青い空が広がっていた。ずっと地面ばかりを見ていた目にはあまりにも眩しく、長くは見つめられなくてすぐにまぶたを閉じた。
「いいね。いいことだ」
 それからしばらく間があり、お茶を飲み終えた老人8は帰る支度をしはじめた。立ち上がって軽く会釈をしたから掬もまた立ち上がってお辞儀をした。しかし老人8はすぐには立ち去ろうとせず、また少し間を開けて口を開いた。
「まじめなことをいいことだよ。でも、たまには肩の様子をみるといい。そういう時は肩が凝っているだろうから」
 それだけ言い残し、老人8は手を振って、今度こそ去っていった。
 掬は一人になった途端、たしかに肩が重くなったような気がした。円を描くように首を適度に回し、肩を上げたり下げたりしてみる。適度に動かした後の肩はいつも通りの重さで、別段軽くなってはいなかったから、今の肩の状態が凝っているにふさわしいのかはわからなかった。スマホを取り出し、メモアプリに老人8に言われたことばを文字にする。
『まじめはいいこと
 でもそういうときは肩が凝ってる』

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係員

自由研究をするときみたいに、ふとした疑問や気になったことを考えに考えて、小説にしています。小説と日記中心です。『飛空艇はやってこない』は、メモ魔の主人公が日々言葉に翻弄されていくはなしです。どうぞよろしくお願いいたします!



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