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Into the hole.

かめねこ書房/久慈川栞

Into the hole.

 ぼくがその穴を見つけたのは、まったくの偶然だった。
 ヴィーの投げたボールが、三日月みたいに曲がってよその方へ飛んでいったのがはじまりだった。用具入れと地面の隙間に入っていったのが見えたから、カラスノエンドウをかき分けて手を入れたらそこにぽっかりと開いていたのだ。ヴィーはぼくより五つ年下で、ボールを投げるのはまだあまり上手ではないから、ぼくはしょっちゅう庭のあちこちに取りにいく。だから隅々まで知っていると思っていた。それなのに、穴のことは全く知らなかった。確かに用具入れは隅の方にあるけれど、それでもこのあたりにボールを探しに来たことは一度や二度じゃない。
 覗き込んでみればその穴は結構大きくて、僕が頭からすっぽり入れそうだった。これはもしかしたら、中に落ちてしまったかもしれない。いよいよ気づかなかったのがおかしい気がするけれど、それよりボールの方が大事だ。少し空気を抜いて柔らかい、ヴィーのお気に入りが無くなったとなれば、大泣きして手がつけられなくなることは想像がつく。ついでに怒られるのは、なぜかぼくなんだ。投げたのはヴィーなのに。腕を入れてみると、見た目よりかなり深い。
「お兄ちゃん、あった?」
 いつまでたっても戻らないぼくを待ちかねたのか、それともボールが心配になったのか、気がつけば後ろにヴィーが立っていた。地面に這いつくばったまま、振り向いて僕は笑ってみせた。ここで無くしたかもしれない、と言うと面倒なことになる。耳元でブン、と蜜蜂が羽音を鳴らして飛んでいく。天気がいいからせっせと蜜を集めていたんだろう。
「ボール、穴に落ちたみたいなんだ。ちょっと待って、探してるから」
「あな? そんなものないわよ、わたし知ってるんだから」
 どうせ嘘でしょう、と言いたげなその口調に腹が立って僕は勢いよく立ち上がった。
「穴がないのに、あるなんて言うわけあるかよ。ほら見てよ」
 一歩引いて指差せば、疑いの目を向けながらヴィーがゆっくり近づいてくる。そうしてその穴を同じように見つけて、驚いたように「まあ!」と声をあげた。
「わたし、今まですっかり気がつかなかったわ」
 ヴィーはさっきのぼくと同じように穴を覗いていたかと思うと、いきなり地面に膝をついて、なんとそこに頭を突っ込んだ!
「ヴィヴィアン! なにやってんだよ!」
 慌てて肩を掴んで引っ張れば、嫌がることもなくまた出てくる。けれどもさっきおばあちゃんが編んだばかりの三つ編みには土や草の葉がひっついていたし、膝をついたせいでエプロンも間違いなく汚れている。おばあちゃんの怒った顔を思い浮かべると、喉におじいちゃんのゴルフボールが詰まったみたいに何も言えなくなる。この間聞いたら、おじいちゃんも同じようになるんだって。
「だって、ヴィーのボール拾わないといけないもの」
「そんなこと言ったって……服を汚したら、おばあちゃんがなんて言うかわかるだろ?」
 すっかり汚れてしまったヴィーはぼくの顔を見て、それから自分のドレスの裾をつまみ上げるとああ、とため息みたいな声を出した。
「そうね、怒られちゃうわね」
「そうだろ、もう諦めようよ」
「いやよ。あれ、パパが買ってくれたんだもの。絶対いや。それに、こんなに汚れちゃったら、もうおんなじだと思わない?」
 どういうこと? ぼくが聞く前にヴィーの方が先に動いていた。また、あの穴に頭を突っ込もうとかがんだのだ。今度は頭より先に腕を差し込んで、本当に中に入るつもりだ! ぼくは慌てて腰を引っ張った。
「本気?」
「おばあちゃんに怒られるのが怖いなら、そこで待ってていいわよ。それとも、暗い穴が怖いのかしら? あいにく、ヴィーはどっちも怖くないの。ボールを持って戻ってくるわ」
 なんだよそれ。ヴィーは得意そうに腰に手を当てて睨みつけてくる。前髪を留めているお気に入りのヘアピンがお日様の光を浴びてちかちかして、眩しい。そこまで言われると、ぼくは行かないなんて言えるわけがない。だいたい、ぼくの方がお兄ちゃんなのにこうして偉そうに言われるのは腹が立つ。別に穴の暗さが怖いわけじゃないし、怒られたくないわけでもない。ボールが本当にここに落ちたのかわからないから入らなかっただけだ。
「ぼくが行くからヴィーは待ってて」
「あら、無理しないでいいわよ」
「いい」
 穴を覗き込む。真っ黒で、どれだけ深いのか想像もつかない。……ちょっと、怖い。でもどうせ、そんなに深いわけじゃないだろう。入り口の大きい、うさぎの巣穴みたいなものかもしれない。ちょっと顔を突っ込んで手を伸ばしたら、多分ボールも見つかる。
 地面に這いつくばる。頭から入ったら手が動かせないから、最初に腕を突っ込んだ。もし奥にいる蛇を触って、怒ったそいつに噛まれてしまったらどうしよう、と思ったけどそんなことにはならなかった。思っていたよりずっと温かい土の感触がして、そしてそこに身体ごと滑り込んだ。腕を前にぐっと突き出して、そのあと体を引っ張っていく。しゃがむには少し狭いけれど、這いつくばって進むには困らない。それくらいの穴。腕を出す時に感じていた怖さは、何度か繰り返すうちに感じなくなった。
「お兄ちゃん?」
 後ろからぼんやりとヴィーの声がする。窓越しにしゃべっているみたいな、変な感じ。ぼくは動きを止めないまま、「なに?」と聞いた。そういえばこれ、ボールを見つけたあとはどうやって戻るんだろう。きた道を後ろ向きに戻るのは、進むよりずっと難しそうだ。
「ボール、あった?」
「まだ……ヴィーは戻って待っててよ」
「いやよ」
 こうなるとぼくの言うことなんて聞いてくれない。それに、どうせ穴の先を進むぼくには無理やりヴィーを庭に戻すのは不可能だ。
 穴は相変わらず続いている。ゆるやかな下り坂になっているから、ボールも奥の方に転がっていったんだろうな。最初は真っ暗で何も見えなかったけれど、ずっと暗いところにいると、うっすら周りが見えるようになってきた。入り口がわはぼくの体が塞いでいるから、光は全然入ってこないのに。手に触れる土の表面はなめらかで、おおきな石もない。動物の巣穴というよりは、誰かが通るために整えたみたいだ。ということは、この先はどこかに続いているんだろうか。這って進んでいるからどれくらい前に進んでいるかわからなくて、ぼくが今どのあたりにいるのか、想像もつかない。
 ゆっくりと進んでいく。土の中は静かなのかと思っていたけど、よく耳をそばだててみると意外にもいろんな音が聞こえてくる。みみずが、ぼくたちみたいに這う音。とん、とん、というほんの微かな振動と一緒に聞こえてくる、なにかを叩くような音。囁くような音は、水がもっと下の方で流れているのかもしれない。全然静かじゃないんだな、もっと暗くて冷たくて恐ろしい場所だと思っていた。
「あっ」
 く、と服が引かれた。土の表面は整っているけれど、植物はそんなのおかまいなしに根を伸ばす。ちょっと戻ればよかったのかもしれないけど、ぼくはそのまま前進しようと腕に力を入れた。ぐい、ぐい。何回かそれを繰り返したら、急に身体がぐんと前に進んだ。根が千切れたか、ぼくのボタンが飛んだかのどちらかだろう。外に出ないとどっちが勝ったか分からない。
「ヴィー、」
「きゃ!」
 そこ、きをつけて。と言おうとしたけれど、遅かったみたいだ。
「ぼくもさっき、服をひっかけたよ。根が出てるみたいだから気をつけて」
「ねえ、ほんとにここにボールが入ったの?」
 そう言われてみると、ぼくだって見たわけじゃないから絶対そうだとは言い切れない。もっと庭を隅々まで探してみた方がよかったのかも。もしかしたら用具入れの後ろの方とか、隣のハボットさんの庭に生垣の隙間から入ってしまったのかもしれない。汗が耳の横をつたっていくのがわかる。どうしよう、ここから出られなかったら。最悪ヴィーが後ろ向きに戻ってくれたら戻れる。けど、もうかなりの距離を進んでいる。まだ幼いヴィーが戻るのは難しいかもしれない。そうすると進んで、どこかから出ないといけないけど……ちゃんと出口があるんだろうか。
 不安が急に膨らんできて、息が苦しくなる。このまま穴の中をずっと這っていたら、どうなるんだろう。ぼくのからだがどんどん長くなって、そして蛇みたいになって、手が必要なくなるのかもしれない。くねりながら細い穴をどんどん進んで、土のなかで眠って、ママともパパとも会えなくて。もし顔を出したのが知らない国だったら? このまま土の中を進んでいるうちに、隣の国に行ってしまってたら、捕まるんだろうか。ずっと穴を通ってきましたって言ったら信じてもらえるかな。
 遠くから聞こえていた水の音が大きくなって、誰かの笑い声みたいに聞こえる。何人かが笑い合ってるみたいだ。川が近いのかもしれない。もしかしたら、このままその川の近くに出るかも。
「あいたっ」
 前に進むために出した腕が何かにぶつかった。触ると目の前に平たい壁がある。
 穴が終わったんだ。探していたボールもなかったし、そのうえ行き止まりだった。ボールが見つからなかったと言えば大泣きするだろうヴィーをうまく言いくるめて、後ろ向きに戻るよう伝えられるほど、ぼくももう元気じゃない。どうしよう。このままここで死んじゃうのかもしれない。ヴィーより先にぼくが泣きそうだ。
 泣いちゃだめだ、と思うほど目には涙が溜まってきて、目の前の壁の隙間から漏れる光が滲む。……光? ぼくは瞬きをした。目の前に立ち塞がる壁を切り取るみたいに、四角く光が差し込んでいる。壁にもう一度手をあてる。硬い、土とはちがう。そのまま思い切りその壁を押すと、それはゆっくりと開いた! 光がいっぱいのそこがどこなのか分からないけれど、きっと土の中よりはマシだ。ぼくはそこに転がり込んだ。
「まあまあまあ! ヘンリー、それにヴィヴィアンまで、そんな格好でキッチンに立ち入るなんてどういうつもりかしら! あなた達のおばあさまはそんなことを教えたつもりはありませんよ!」
 眩しくて瞬きを繰り返しているとおばあちゃんの大きな声がして、そしてそこがよく知っているぼくの家のキッチンだと気がついた。あとから出てきたヴィーも、目をぱちぱちさせながら周りを見ている。後ろをみると棚の扉が開いている。ここから出てきたはずだ。でも、そこにはおじいちゃんのお気にいりのお菓子がたっぷり詰まっていた。
「あの、おばあちゃん……ぼくたち、穴を這ってたんだ。そうしたらここに出て……信じられないかもしれないけど、ほんとに、出口がここだったんだ……ヴィーも一緒で、その……ボールをなくしちゃって」
 信じてもらえるわけがない。それでも、ぼくの話をおばあちゃんは黙って聞いていた。瞬きもせずに。うしろからヴィーが「ほんとうなの」と小さく言ってくれたけれど、誰がこんな嘘みたいな話信じる? ぼく達が出てきたと言い張る戸棚は地下と繋がってなんかない。
「……うそじゃ、ないんだ」
 結局そう言って黙り込んでしまったぼくは、床の模様を睨みつけた。喉の奥にゴルフボールを詰め込まれたみたいに息が詰まる。ぎい、と床板が軋む音がした。ぼくの見ている世界に、おばあちゃんの靴が入り込む。きっとお尻を叩かれるか、夕飯抜きだと言われるんだ。
「信じますよ」
「えっ」
 顔をあげたら、おばあちゃんが目の前に立っていた。どうしてだろう、怒ってない。それに、信じるって言った? 
「あなたのパパも、その穴を通ったのですよ。そしてもちろん、おじいさまも。なにかひとつ、穴に忘れ物をしてきたでしょう。地下の住人たちへの贈り物ですから、きっと戻ってきませんよ。そのかわりあなた達はずっと食べ物には困りませんから」
 ほら、おじいさまのその戸棚をご覧なさいな、と言われてもぼくは信じられなかった。パパもおじいちゃんも、同じようにあの穴を通ったの? うちで生まれて育った人はみんなあれを通るの? ぼくは土で汚れた服を見下ろした。ベストについていた、真鍮のボタンがなくなっている。ヴィーはお気に入りのヘアピンがなくなっていた。贈り物ってどういうこと? ぼくの疑問におばあちゃんは答えてくれない。笑顔でぼくたちの背中を押した。
「ほらほら、そんな汚れたままキッチンにいるのは感心しませんね。すぐにお湯を沸かしますから、二人とも入ってらっしゃい。今回だけは汚したことを許しますが、次はありませんからね」
 こういう時のおばあちゃんは、もうなにを聞いても教えてくれない。諦めてバスルームに向かいながら窓の外をみると、庭になくしたはずのボールが転がっているのが見えた。

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​自己紹介

かめねこ書房

久慈川栞

幻想文学なのかファンタジーなのかホラーなのか、一体自分は何を書いているのだろうと思っていたところ、ここへ最近は『純文学』と『児童書』が仲間入りしました。答えが出るところか増えてしまった。もうなにもわからない。ずっと迷子。そんな人間が書いています。アンソロは児童書寄りを意識してみたのですが、もしかしたら別のなにかかもしれません。



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