ベッドの船と玻璃の森
蜜蝋文庫/饗庭璃奈子
波音が耳朶をくすぐり、微睡みからふと、泡沫のように意識が浮上する。波たちはしきりに何か囁いては、くすくす、ひそひそと、さも堪えきれないといったふうに笑い合っている。この世で波ほどおしゃべりなものを、私は他に知らない。
起き抜けの気怠さを引きずったまま視線を投げれば、部屋と外界との境界を越え、波は既にベッドの傍らにまで浸水している。出窓が設られていたはずの、見慣れた壁は打ち破られ、部屋はさながら座礁船のように、見知らぬ浜に乗り上げている。木目の床には細かな砂が入り込み、小さな貝殻がいくつか無造作に転がっている。
私はそっと半身を起こし、はだしの足を踏み下ろした。水はひたりと甲の中ほどまでを濡らし、波音のくすくす笑い合うたびに、くるぶしの周囲で小さな飛沫が嬉しそうに跳ね回る。緩慢な動作で立ち上がり、打ち破られた壁から外に出る。そこはやはり、内向的な弧を描いて横たわる巨大な浜で、不意に網膜を照射する光に眩暈さえ覚える。私の部屋がいかに薄暗く、捻くれ者の居場所であったかということを、こんな果てにまで来て私はようやく思い知る。
浜にはほとんど風化しかけた、腰ほどまでの高さの石壁が一枚、遺跡のように佇んでいる。少し向こうには私や、私の部屋や、ベッドの船と一緒に漂着したと思しき、紅い物体が落ちている。私はそれに近づき、拾い上げた。
林檎だった。
林檎はいかなる辺に触れても均一に同じ長さの、玻璃の立方体に閉じ込められていた。どうもこの辺りの海域は玻璃のアモルファス──結晶構造を持たない物質──を多分に含んでいるらしく、林檎はその結晶化の際に核として取り込まれてしまったように思われた。林檎は今や恣意的な、ひとつのオブジェと化していた。
私は眩しげに目を細めて、遠方を見やる。翠緑の森が彼方に煌めいている。察するに、玻璃のアモルファスはあの森から近隣の海域に流れ出しているようである。
浜と同じ色をした石壁の上に、私は林檎を細心の注意を払って置いた。
そして、歩き出す。あの、遥かな玻璃の森へと向かって。
誰かが故意に埋め込んだ装飾品のように、大小様々な貝殻は、まばらさとある種の規則性、相反する二つの美しさを持って、砂漠のように横たわる浜に散りばめられている。波たちのおしゃべりは一層色めき立ち、止む気配さえ見せようとはしない。