砂塵と寄り鯨
片足靴屋/Sheagh sidhe/南風野さきは
淡い赤の雪原を見たことがある。あれは北極海を航行中に寄港した土地でのことだった。そこで地をおおっている雪は、白ではなかった。雪とは白いものであると思いこんでいた驚くわたしに、通りすがりのひとが、あれは氷雪藻の彩りだと教えてくれた。
淡い赤の雪の降る街を見たことがある。あれは春のことだった。たゆたえども沈まずと掲げる光の都市を訪れたときのことだ。雪とは白いものだけではないと知っていたけれど、驚かないわけではなかった。雪をながめながら運河のほとりで立ち尽くしていると、この彩りのもとになっているものは海の向こう側からやってきているのだと、雪だるまをつくっていた親子が教えてくれた。
街を彩っていた雪の赤は、氷雪藻の赤によるものではない。
「砂漠の砂が巻き上げられて、風に乗って流された結果、海を隔てた先で赤い雪になるなんて、そんなこともあるのですね」
無線から通信士の声が流れてくる。
「あちこち航海していたが、知らないことはたくさんあるな」
燃料を抜かれ、底を水に触れさせることすらできずにいる船の操舵室で、無線の声に肉声でこたえる。操舵室にいない者が、おどけてみせる。
「意外です。あなたの口からそんなことばを聞くとは。あなたは七つの海を制覇する冒険家のようなものではないですか。いろいろなことを、それこそどうでもいいようなことを、遍くご存知であるものだと」
「それはおまえのおもいこみだ」
笑みを含んだ肉声が、この頭蓋をふるわせる。
眼前の流れを、悠然と、コンテナ船が運航していく。同じ輸送船とはいえ、この船とは比べ物にならないくらい大きな船だ。それらに整然と積まれているコンテナは、厳格に規格化されていて、色とりどりだった。鏡に映したかのような同一の長方形が、色彩を溢れさせている。運河を往くコンテナ船は、巨大なモザイク画を載せているようだった。
ゆるやかに移動していたモザイク画の鮮やかさが、かすむ。
「現地のお店にお願いしていますが、日用品はきちんと届いていますか」
「届いている」
「足りないものがあったら遠慮なくどうぞ」
「輸送船の航行に必要な足場は、砂ではなくて水だろう」
問いかけてくる無線の声が、途切れがちになる。操舵室から、窓の外を凝視する。
「それ以外でお願いします。届けられたあの缶詰が美味しかったといったことや、ご家族への援助の更なる充実を要請する取次ぎなどであれば、応じられますが。管理していただいている船のサルベージについては僕の管轄外なので、上に直談判してください」
かろうじて聞き取れた声は、砂礫が船体を打ち据える音によって、その先を遮られた。
「せっかく連絡をとってくれたところ、悪い。砂嵐だ。居住区に潜る」
相手に聞こえているかどうかを確かめることなく、船の奥へと向かう。
さっきまで青空だった。今では太陽の円形がかろうじて朧に白く目視できるだけだ。砂煙の渦の壁が、雷鳴ともつかない轟音が、迫ってくる。迫っているだけで、到達してはいない。あの砂塵の渦は、まだその指先をすら、この船にかすめていないのだろう。それにもかかわらず、この有様だ。
生存するためには、この砂塵をしのがなくてはならない。
この船は、砂嵐による視界不良によって座礁した。岸に乗り上げた船は、運河の運営側と船を所有する会社側との折衝が進まないまま、座礁した当時は船底の半分程度は水に浸かっていたものの、時の経過とともに運河の水量が減ってきて、浜辺に打ち上げられた鯨のようになっていた。そうこうしているうちに、人のつくった決まりごとにしたがった場合、私の居場所は世界中でこの船のなかだけになっていた。ひとつどころに留まるのならば、かつ衣食住が保たれているのならば、安住と呼んでもかまわないのだろう。
それなのに、私はこうして逃げまどっているのだ。
居住区にたどりつく。小さな船だ。簡易キッチンや寝台のある狭い区画に足を踏み入れるまでに、さほど歩数は必要としない。どうせ聞こえないだろうとおもいつつも、ラジオの電源を入れる。コーヒーを淹れて、マグカップを持ったまま寝台に座り、何度読み返したか知れない雑誌を手に取った。窮屈ではあるが、時間だけはある。本来であれば進水するべき鉄塊に砂の当たる音を聞きながら、マグカップに唇を触れる。陶器から熱が伝わってくる。できる限り修繕しているとはいえ、この船体はもつのだろうか。砂嵐に遭う度に不安になる。砂に埋もれたとしても、乗りあげている砂ごと傾いたとしても、おかしくない。漠とした暗さをもたらした砂のあげる音は、船を見つけた無数の小さなものが、踊りながら手を叩いているようでも、はしゃぎ声をあげているようでもあった。
砂嵐から気を逸らすため、読み尽くした雑誌の文字列を追った。そうしているうちに睡魔に絡めとられたらしく、しばらく眠っていたらしい。途切れがちな、かろうじて意味の汲める、雑音ともつかないラジオの音声によって起こされた。聞き取れた箇所を要約すると、この砂漠で発生した、観測史上においても稀である巨大な砂雲が、大陸間を移動しているという。
ダウンバーストが砂漠の砂を巻き上げ、長距離旅客機が飛行する高度よりも高く舞い上がり、風に流されて、砂の雲に海を渡らせた。春の終わりから秋の初めにかけての現象で、起きること自体は珍しくない。珍しくないので、発生するたびに、居住区に籠もることも珍しくない。ただし、海上で散じて薄まらないことは珍しい。この砂雲は砂雲であることをやめることなく、十日をかけて、海を渡った。
かつては帆船を運んだ風が、砂雲を運んだのだ。数百年前の新航路をひらいた試みは、大航海時代と呼ばれる時代を私に想起させた。発見ということばでもって迎えられた大陸に、砂塵は到達したのだ。砂雲と呼ばれるだけの形状を維持し、海上で崩れ去ることをしなかった砂粒たちは、海を隔てた先で太陽をぼやけさせているという。
「砂の群れの大冒険といったところか」
この砂漠は赤い。この砂漠の砂そのものは石英であるというから、透きとおっていてもおかしくはないが、酸化鉄でおおわれているために赤く見えるという。そのあたりのことには詳しくない。それよりも詳しくないものといえば、地球を包んでいるという大気の循環なのだが、この循環により、今回の事態は起きたという。
これはいい、と、笑みが浮かぶ。
風の吹くそのゆきさきの数だけ、砂粒のゆきさきもあるのだ。人間なるものに海や大陸と定義されたものを、定義したものの都合などおかまいなしに、流れ、渡り、異なる気候帯の森に運ばれて、落ちていく。
そこにおいて人間なるものは歯牙にもかけられていない。
座礁した船のなか、砂漠へ駆け出していくこともできない私は、ひとり、愉快さに身をゆだねていた。
(了)
サークル
作者
自己紹介
片足靴屋/Sheagh sidhe
南風野さきは
地に足のつかない、ゆらゆらとしたまぼろしのようなものを綴っています。まぼろしとしかいいようがないです。