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ECKE

絲桐謡俗 /一福千遥

ECKE

「ほんとうに、よろしいのですね?」
 いかめしい石組み造りの、広々とした応接室。ずらりと筆が並べられた大きな卓のほかに、調度品らしきものは何ひとつない。そんな室内を物珍しげに見回していたマウリッツは、イソノイの店主からかけられた声に背筋を伸ばした──が、すぐにそのがっしりとした背骨をしおたれさせる。そのままちらり、と隣を見れば、マウリッツより小柄で細身の黒髪の青年が、青ざめた顔でじっとうつむいていた。
 ──よもや、こんな日が来るなんて。
 細かく震える青年の肩が何より雄弁にそう語るのを、マウリッツもまた苦さを抱えたまなざしで見つめてしまう。
(分かるぜ──『これで一人前だ』とイソノイの筆を師匠から手渡されたときには、自分からそいつを手放すために、海の果てが見えそうな岬のはずれまで来るなんて思いもしなかったさ)
 そんな二人をちら、と見、店主は静かな声で語りかけてきた。
「それではお二方とも、我がイソノイの筆を手放すにあたりまして、持参された筆で最後の一枚を描いてください」
「はあっ?!」
 異口同音に叫び声をあげた二人をよそに、店主は涼しい顔も声音もくずすことなく話を続ける。
「画題が浮かばないのでしたら、我がイソノイに辿りつくまでの道程でも結構ですよ?」
「そんな……ここまで来るのだって必死の思いでしたのに」
「そちらはリィ・ユァンハさま、でしたか──大陸の東からここまで訪れるのは、なかなかの冒険のはず。それなのにせっかくの道程も、景色も、何ひとつとして覚えていらっしゃらないと?」
「そんな、物見遊山を楽しむような気分になどなれるわけがないでしょう! ……画を描くことに怯え惑い、疲れ果てた身はただもう、こちらに──筆肆『意園井』に筆を返して、はやく楽になりたい一心で足を運んできたのに!」
 リィの声に、マウリッツもおおきくうなずいた。
「だいたい、もう絵描き辞めるから筆を返しに来た人間に向かって『絵を描いてくれ』って、いったいなんなんだよ」
「マウリッツ・ファン・デル・バーレントさま、それも、我がイソノイの筆を手にされる条件のひとつです。あなたがたに筆を贈られたかたにも言い含めておきましたし、そもそも筆に添えている約款にもきちんと記してありますが?」
 ふふ、と声を立てて店主は笑うと、隣室に二人を誘う。
 そこには、途方もなくおおきく見えるまっさらなキャンバスと、果てしなく長く見える画仙紙が置いてあった。
「さあ、どうぞ、お好きなようにお描きください」

「……ったく。なんだよ、あのニヤニヤ笑い」
 キャンバスと相対し、マウリッツは頬を膨らませる。隣の宅で画仙紙を眺めているリィもまた、途方に暮れているようだ。
(イソノイで最後の絵を描け──か)
 幼い頃から肖像画を描く工房で仕込まれ、親方も愛用しているイソノイの筆の新品ひと揃いを贈られたときには、マウリッツは文字通り飛び上がるほどに喜んだ。その描き心地の良さ、色の乗らせ具合の絶妙さは、親方の仕事を目にしているだけでも伝わってくる。
 そんなイソノイの筆を、マウリッツはどれほどこの手にしたいと願っただろう。
(──けれど、楽しかった日々はあっさり途切れた)
 己は果たしてこの筆で、肖像画を──つつましやかな暮らしを送るひとたちの晴れの日の極上の笑顔を、その日に至るまでの軌跡を、そして、これから紡ぐ日々の安寧への祈りを込めた絵を描けているのだろうか──
 己が問いへの明確な答えが、肝心の己の内からすらりとも出てこない。
 そのときから止まった筆は、数日どころか数ヶ月も、数年も動かせなかった。
(……それでここまで来たのは、リィという東方からの来訪者も同じだろう)
 重い心を抱えた長旅にくたびれてはいるが、もとの身なりはけして悪くない。おそらくは宮廷貴族のお抱え画家だろう、と踏むマウリッツの傍らで、
「──妙な精緻さだけを追求し、芯にあるべきものが描けてなどいない、ただ金子銀砂を毟り取らんとするだけの空虚な画。そんな画しか仕立てられない我が身に、それでもこの筆を手放したければ描け、と意園井の主は言うのか……!」
 リィが声を震わせ、じっと、卓に横たえられた長尺の画仙紙を凝視していた。
 血が滲むほどつよく唇を噛みしめているリィの横顔に、マウリッツは思わず声をかけていた。
「なあ、リィさんだったか。オレもあんたも、もう絵を描けない──描きたくない、って思っちまったから、筆を手放しにイソノイまで来たってのに、『絵を描け』なんてさ、けっこうしんどいよな。
 でも、このままじゃ手放せない、ってんなら、最後の一枚──の半分、いや、隅っこにちょっとばかり描いてみないか?」
 マウリッツの言葉に、リィが顔を上げる。
「このままバカでかいキャンバスやら長すぎる紙とにらめっこしていたって、余計にこっちもつらくなるだけだしさ。それにあの店主、『お好きなようにお描きください』って言ったんだから──」
 マウリッツの言葉をひとつひとつ確認するように、リィは沈思黙考していたが──何かに気づいたように、ぱあっ、と笑みを浮かべた。
「たしかにそうですね! 『お好きなように』ということでしたら、寸尺もこちらの好きにして構わないわけですよね!」
「そうそう、そうと決めちまえば、あとはさらさら、っと描いて、はい、オサラバ。ってことで」
「マウリッツさん、ありがとうございます。この長尺の紙を前に気後れどころか気鬱になりかかっていましたけれど、おかげですこし気が楽になりました」
 頭を下げたあと、リィがやさしい手つきで筆をとる。ほとんど無意識のそのしぐさに、マウリッツはあたたかく目を細めていた。

(さて、と……何の画題も思い浮かばないなら、イソノイに辿りつくまでの道程でも描け、とは言われたが、オレもリィと同じで、ここまでどうやって来たのか、あんま覚えてないんだよなあ……)
 しばらく何を描くか考えあぐねていたマウリッツではあったが、ふっ、と何かを思いついたような表情を浮かべるなり、下地を整えたキャンバスの右隅に木炭をあてる。さらさらと描き出されたのは、何の変哲もない田舎の村の、景色の片隅にそっと描き留められるような、ささやかな家だった。
 うつりかわる緑と褪せぬ緑の合間を縫うように畑を耕すひとたちの姿を、収穫の季節に聞こえる陽気な歌声を、煤けた煉瓦に染み込ませて記憶しているようなそれは──マウリッツが修行に出る六つの歳まで、暮らしていた実家。
「へえ、案外覚えてるモンだな」
 筆に少しずつ色を馴染ませ、マウリッツはキャンバスに置いていく。あれほど重いと感じていたイソノイの筆であることを、このときマウリッツは完全に忘れていた。
「朝に奉謝を、夕に祈祷を……」
 幼いマウリッツに歌う母と祖母の声をなぞりながら、キャンバスの片隅で立ち上がっていく家の姿に、ふと郷愁をおぼえたマウリッツが息をついた、そのときだった。
「ああ……もったいない。絵からちゃんと歌も息づかいも聞こえてくるのに──マウリッツさん、ほんとうにその筆を返されてしまうのですか……?」
 問う声を、リィがかけてきたのは。
「えっ……?」
 我に返ったマウリッツが、キャンバスから視線を外す。賛嘆と驚愕とに黒い目を見開いているリィと、その傍らの画仙紙に描かれた画。そこに辿りついた緑の目を行きつ戻りつさせながら、マウリッツは勢いよく椅子から立ち上がった。
「それはこっちの台詞だ、リィ! なんだよ、こいつは……オレは東の画を見るのはこれがはじめてだが……黒一色きりなのに、画から水の流れる色も、咲いてる花の色もちゃんと感じられるし、行き交う船の櫂で変わる波、岸辺で歌う酔っぱらいたちの楽しげな歌も聞こえるし……すげえじゃないかよ! 全っ然、空っぽなんかじゃねぇって!
 それなのに筆を返しちまうなんてもったいねぇよ!」
 頬を紅潮させるマウリッツに負けず劣らず、リィもまた頬を赤くしながら言葉を返す。
「マウリッツさんこそ、私の台詞を取らないでください! 西洋の絵は重厚な絵具をたくさん駆使すると伝え聞いていましたが、マウリッツさんの絵は色合いが自然で、見たことがないはずなのに、どこか望郷の念を感じさせてくれて……
 この絵、もし私の画房に置いたら、この絵が描けない私にすこしだけくやしい思いもしながら、それでもきっと──何度も、何度も繰り返し、このやさしく懐かしい絵を見つめては心をほどきたくなる、そういう絵です」
 一気に言いつのり、肩で息をするリィに、
「オレだって! リィの画を見てたら、この景色を見るためだけ東へ行ってみたい、って
思う! もしそんな冒険がかなわない、ってんなら──この絵を工房に置いて、見るたびに遠い東への旅路をつのらせちまう、そういうはるかな憧れを感じさせてくれる画だ!
 それがこれっきり、もう二度と見られないなんて……」
 マウリッツが言葉を次ごうとするのと同時に、画室の扉が開いた。
「さてお二方とも、最後の一枚は描けましたでしょうか?」
 扉の陰からイソノイの店主が、じっと二人を見つめている。
「最後の、一枚……」
「いかがです? 筆を返される覚悟は決まりましたか」
 淡々とした声に、マウリッツとリィは互いの顔を、絵を見くらべ合い──そして、己の描いていた絵をつくづくと見つめてから、口を開いた。
「ああ、この筆は返す」
「この筆はお返しします」
「だが」
「ですが──」
 すうっ、と息を吸い込む音も、発語の間合いも重なって、
「有り金全部はたいて、新しくこのイソノイの筆を買わせてくれ──いや、買わせてください!」
「今の手持ちではたとえ一本きりとしても、画肆・意園井の筆を新調させていただけませ
んか」
 マウリッツとリィは熱のこもった声音で言うと、店主に深々と頭を下げていた。

「……多いんですよね、ここに最後の絵画を描きに来たものの、これまで使っていた筆をお返しし、ご自分で新しく筆を買って行かれる方」
 またこの展開か、と言いたげな店主の呆れ口調ではあるが──口許にはいっさい外連味のない笑みが浮かんでいた。
「まあ、我がイソノイとしましても、お二方にはこのまま画業を続けていただいたほうがいろいろありがたいですし……そういうことでしたら、このたび描いていただいた絵と画はこのままこちらで、第一幕、完ということで引き取らせてもらいます」
「第一幕、完……」
「そしてここから、人生という冒険の第二幕、第三幕へと続いていくのでしたら、その幕開けに我がイソノイという場があるのでしたら、それはとても喜ばしいことです」
 にっこり笑顔で店主は言うと、マウリッツとリィに、天鵞絨のかちっと張られたケースに整えられた、新品の筆のひと揃いを差し出してきた。
「うっ……工房でちまちま稼がせてもらってたときなら、ひと揃い買うのもなんとかならねえ額じゃないんだが……」
「逃避行のあとですと、洒落でも冗談でもなく一本買うのがやっとですね。
 ──でもまあ、いいでしょう。まず手はじめに、こちらの筆を一本いただけますか」
 はじめて見たときからはうって変わって、きっぱりと言い切るリィにマウリッツが目を見張る。
「思い切ったことすんなあ」
「天が私たちに画を描く才を授けてくださった、というのでしたら、この筆一本あれば、いずれどこかで必要としてくださるでしょう。そのためにはこの筆にいっとき千金を散じようと、ちゃんと還ってきますよ。
 マウリッツさんもそうじゃありませんか?」
 完爾と笑むリィに、マウリッツは久しぶりに、腹の底から大声で笑っていた。
「違いない! じゃあオレも最初の一本は──こいつだ!」
 艶消しの黒い軸に、ゆるやかな弧を描く白い穂先。はじめて触れた指にしっくり馴染むけれど、たしかな芯の手応えを感じさせる。
「これからよろしくな、相棒」
「今日からよろしくお願いしますね」
 ふ、と笑む二人に、店主が声をかける。
「このたびは我がイソノイの筆をお手にとっていただき、誠にありがとうございます。
 さて、さっそくですがこの新しい筆で絵を一枚描いていただきたいのですが──もちろん、代価はお支払いしますよ?」
 顔を見合わせるマウリッツとリィだが、店主の目配せに気づくなり、
「……そうだなあ、財布もスッカラカンだし」
「なにより、新しい筆の描き心地も試したいですからね」
 そう答えてから、異口同音に晴れやかな声をあげる。
「「さあ、オレたちの冒険はここからだ!」」

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​作者

​自己紹介

絲桐謡俗

一福千遥

はじめまして、一福千遥と申します。アンソロ参加作「ECKE」と頒布作との間がもうすでにジャンル迷子しています。あっちこっちフラフラソワソワの小説書きですが、どうぞよろしくお願いします!



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