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天使のおじさん

ハツハレ/hamapito

天使のおじさん

 天使を見た、と言ったら大人はみんな困ったように笑った。見間違え、気のせい、夢でも見たのだと言って誰も信じてはくれない。
 それでもわたしは見たのだ。
 天使だと名乗るおじさんを。背中で畳まれた真っ白な翼を。一緒に過ごしたのはたった一日だったけれど、二十年経ってもその姿を忘れることはなかった。
 ――なかったから、こうして戸惑っている。
「もしかして」
 聞こえた声にすぐには反応できない。会社帰りに立ち寄ったコンビニ。レジを挟んだ店員の目が見開いていく。
「お嬢ちゃん……?」
 おそらく大学生。記憶にある天使を若くしたらきっとこんな顔だろう。スーツではなくコンビニの制服を着ていて、翼もないけれど、きゅっと下がった目尻や柔らかく響く声は変わらない。色褪せることのなかった思い出が鮮やかな輪郭をもって出てきた、そんな感じだった。消えることのなかった自分の想いに触れ、ようやく口が開く。
「おじさん……?」
 今の彼にはちっとも似合わない呼び名だけど、幼かったわたしはそう呼んでいた。
 自動ドアが開き、花の香りを含んだ風が前髪を揺らす。柔らかな春の空気。ティロティロティン、と耳慣れた音が店内に響いても彼は振り返らない。まっすぐ私を見つめている。
「覚えてるの?」
「天使のおじさんでしょう?」
「うん。覚えていてくれて嬉しいよ」
 忘れられるはずない。二十年ずっと持ち続けたお守りは今も鞄に入っているのだから。

 ***

 毎年お盆の時期は母方の祖母の家に親戚が集まる。わたしにはとても憂鬱な時間だった。大人はみな、子どもたちは自然と仲良く遊んでくれるものと思っているけれど実際は違う。年の近いいとこ同士は当たり前に一緒にいるけれど、ひとりだけ年の離れたわたしはその輪に入っていけなかった。年上のいとこたちがみんな男の子だったのもある。
「みんなで遊ぶのよ」
 家からは揃って送り出されるが、親の目がなくなれば自由に駆け出してしまう。外で遊ぶのが好きな男の子たちにとってお荷物以外の何ものでもない。どこに行ってもわたしは仲間外れだった。
 今日は公園か。昨日の川よりは落ち着けるだろう。夏の強い日差しの中、ボールを追いかけるいとこたち。そんな彼らを横目にわたしはベンチに座った。緑の葉で覆われた藤棚を見上げ、早く日が沈むよう祈る。帰省は四日間だけだと言われている。今日は三日目。明日には帰れる。あと数時間の我慢。はあ、と息を吐き出し、思い切り足を振り上げた瞬間――。
「いてっ」
 誰もいないはずの空間から声が聞こえた。
 広い公園を囲む緑色のフェンス。地面には自由に伸びきった草花。ベンチに座る自分が足を伸ばせたのはせいぜいその花の上までだ。さわさわと生温い風が流れていくが、やっぱり何も見えない。
 首を傾げながら足を下ろす。瞬間、ふぁさっと柔らかな感触がサンダルの裏から伝わってきた。
「っ……」
 声にならない悲鳴をあげて足を浮かせば、何もなかったはずの地面にひとが倒れていた。背中で畳まれた白い翼にはサンダルのあとがついている。とても大きくてキレイな翼。なんでこんなものを背負っているのだろう。疑問に思いながらも砂を払おうと手を伸ばせば、
「触らないで」
 と小さな声が響いた。
 ビクッと手を引っ込める。足を下ろすことができないのでそのまま両膝を抱え込んだ。うつ伏せの体が向きを変える。仰向けになると顔がはっきりと確認できた。お父さんとおじいちゃんの間くらいの歳だろうか。「おじさん」と呼んでよさそうな感じだ。
 おじさんはゆっくり瞬きを繰り返すと「ここはどこ?」とわたしに訊いた。
「公園ですけど」
 きょろきょろと大きな目を左右に動かし、「あー」と声を出しながら体を起こした。
「落ちちゃったのか」
「落ちた?」
 思わず聞き返せば、おじさんは地面に胡坐をかいた状態でわたしを見上げる。
「これから飛びますよ、ってときに何かが足に当たって」
「何か……」
 ふと「いたっ」と声が聞こえたことを思い出す。もしかして……。
「一度地面から離れたらひとには触れないように、って言われてたんだけど」
 どうしようかな、とちっとも焦りの見えない声を落としながら頬を掻く。おじさんは紺色のスーツを着ていたけれど、ふわふわの翼があるからだろうか、知らない大人なのにちっとも怖くなかった。それどころかそばにいると不思議と胸が温かくなる。とりあえず謝るのが先だろうと、小さく口を開くと
「お嬢ちゃん」
 一瞬早く、おじさんがわたしを呼んだ。目尻を下げ、にっこりと笑っている。
「責任取ってくれるかな」
 優し気な表情とは反対に声は重く響いた。せきにん、と聞こえた言葉を口の中で転がしていると「天国の入り口を一緒に探してほしいんだ」と今度はわずかに弾んだ声が響く。
「えっ」
 天国。入り口。追加された言葉に頭が混乱する。年上のいとこたちに囲まれているわたしは、小学一年生にしてすでにサンタクロースが両親であることも、天国に行くのが亡くなったひとであることも、そういうひとが目に見えないことも知っていた。
「大丈夫。そんなに難しくないから」
「でも」
「今日中に行けないと困るんだ。実は僕、本当の天使にはまだなりきれてなくて」
 ぱさ、ぱさ、と背中の翼が音を立てる。ふわりと小さな羽根が舞い上がり、目の前で消えた。
「お嬢ちゃんの足があたらなかったら、今ごろ本当の天使になれてたと思うんだけど」
 ちらりと視線を向けられ、胸がぎゅっとなる。知らないひとにはついていってはいけない。母にきつく言われている。でもおじさんはもう「ひと」ではないらしい。「天使」にもなりきれてはいないみたいだけど。何も知らなかったとはいえ、わたしのせいで困っている。何か少しでも協力できるならするべきだろう。それに……。
 笑い声の重なっている方へと視線を向ける。いとこたちは、わたしがいなくなったところで気にしないだろう。
「日が暮れる前に帰れるなら」
 わたしは抱えていた足を地面に下ろした。

 ***

「あのときは脅すようなことしちゃってごめんね」
 元天使のおじさんはそう言って運ばれてきたビールのジョッキを傾けた。ゴクゴクと喉を鳴らし美味しそうに飲んでいる。聞けば先週二十歳になったばかりだという。それにしては飲み慣れている気もするが。
「いえ、元はと言えばわたしのせいなので」
 明日も出勤なのでウーロン茶のグラスを手に取りながら答える。数分前に二十年ぶりの再会を果たした私たちは駅前の居酒屋にいた。おじさんは「あの時のお礼がしたい」と言ったけれど、お礼を伝えたかったのは私も同じだった。
「ふふ。お嬢ちゃん、ずいぶん大人になったね」
 明らかに年下の男の子に「お嬢ちゃん」と呼ばれ、思わず口の中でウーロン茶が跳ねる。と同時に天使のおじさんには名前がなかったことを思い出す。生きていた頃の記憶は死んですぐに取り上げられてしまったと言っていた。知ったところで当時の自分は呼べなかっただろうけど。
「あの、さすがに『お嬢ちゃん』はちょっと」
「ああ。そっか。じゃあ僕も『おじさん』じゃなくて『アマネ』って呼んでよ」
「アマネ?」
「佐藤天音。今のぼくの名前」
 ――今の、と響いた音は小さく弾んでいた。
 君は? と視線だけで尋ねられる。
「木原結衣です」
「結衣ね。オッケー」
 あっさりと呼び捨てられ、おじさんってこんな軽い感じだった? と首が傾く。新しい人生を生きているのだから当たり前か。

 ***

 そこは昨日いとこたちと来た場所だった。山の奥、森を抜けた先にある川。途切れることのない涼やかな音。水面で揺れる光。木々の間を抜ける風は心地よく、夏の暑さは遠く感じられた。
 何もできなかった昨日の自分が蘇る。石にぶつかって流れを変える水を見つめるだけ。気持ちよさそうに飛沫をかけ合ういとこたちを眺めるだけ。臆病で人見知りなわたしは「仲間に入れて」とは言えず、誰かが声をかけてくれるのを待っていた。
 川の数メートル手前で足が止まる。そんなわたしには構わず「確かこの辺のはず」とおじさんはどんどん進んでいく。「入らないとダメか」大きな石の上で履いていた革靴と靴下を脱ぎ、バシャバシャと音を立てた。
「おぉ、冷たい」
 大きな声で笑って背中の翼を広げる。羽根の先が水を掬い、きらきらと光が舞った。水面を白い輝きが流れていく。
「おいでよ」
 息を呑み込んでいた。あまりにも気持ちよさそうに笑うから。翼が美しかったから。
 固くなっていた体が前に動く。
 気づけば、パシャン、とサンダルごと川の中に足が沈んでいた。ひとりでも入ってみればよかった。怖がってばかりいないで自分から触れてみれば、そんな必要なんてなかったのだとわかる。足を撫でる冷たさに力が抜けていく。
「どこだろうなあ」
 辺りを見回すおじさんの姿に「わたしも探さなくては」と視線を動かす。入り口というからにはドアみたいなものがあるのかな。透明な水の向こうを覗くが、石が敷き詰められていることしかわからない。
「あの、入り口ってどんなものなんですか?」
「そうだなあ」
 おじさんが言葉を探しながらふぁさふぁさと翼の先を動かす。きらきらと雫が散っていく。
 ふと疑問が浮かんだ。
 ――そもそもわたしに見えるものなのだろうか。
 おじさんのことが見えてしまっているから何も思わなかったけど。道ですれ違った誰もおじさんに気づいてはいなかった。本来はそういうものなのだろう。「天国の入り口」だってそうなのではないだろうか。
「こればかりは死んでみないとわからないというか」
 そうなんですね、と返しながら疑問はさらに膨らむ。それなら死んでいないわたしには見えないということだ。見えないものをどうして探せるのか。おじさんは最初からわたしが役に立たないことを知っていたはずでは?
 ――死んでみないとわからない。
 ぞわりと背筋が寒くなる。天国の入り口を見つけるためにわたしを連れてきたのだとしたら。その意味は……。
 急に怖くなって足を後ろに下げれば、カクンと一段低くなっている場所に踵が落ちた。声を上げる間もなく、バランスを崩した体は川の中に沈む。傾いていく視界の中でおじさんは笑っているように見えた。

 ***

「一緒に行くつもりだったの?」
「え」
「あそこは神隠しで有名だって聞いたから」
 あの日を境に、いとこたちは私を仲間外れにしなくなった。あの山からひとりで帰ってきた、というのが相当すごいことだったらしい。まるで大冒険から帰ってきたみたいな扱いだった。聞けば地元では「ひとりで近づけば神隠しにあう」と恐れられているところなのだとか。
「天国の入り口は死なないとわからないんでしょう? わたしを死なせて現れた入り口に飛び込むつもりだったのかなって」
「最初はそのつもりだったよ」
 あっさりと返ってきた言葉に、驚きよりも先に「やっぱり」と笑いがこぼれる。
 くいっと焼き鳥の串を口から引き抜きながら天音くんは言った。
「それでうまくいった話を聞いてたから。真似しようと思った」
 神隠しで有名な理由はこれだろうな。
 ――あの時、わたしは死んだのだろう。
 何に対しても消極的で、引っ込み思案だったわたしはもうどこにもいなかった。残されたのはおじさんと同じマイペースで物怖じしない性格の私。私を助けることで――いらなくなったわたしを連れていくことで――おじさんは天国に行けたのだろう。
「でも、なんでわかったの?」
「だって」
 隣の椅子に置いていた鞄へと手を入れる。内ポケットから取り出したのは片手に載るほどの大きさの羽根。白いまだら模様を散らしている黒い羽根だ。家まで送ってくれたおじさんが落としていったもの。
「川に入った時に白い塗料が流れてたから」
「うわ、そっか。もう乾いているから平気だと思ったのに」
 おじさんが本当の天使ではないとわたしは気づいていた。白い翼はニセモノで本当は真っ黒なのだと。それでも惹かれていた。速くなる鼓動を、動き出した足を止めることはできなかった。最後は怖くなって逃げようとしちゃったのだけど。
「まあ、おかげで本当に天国に行けたからお嬢ちゃんには感謝しかないわ」
「あ」
「あ、やべ」
「まあいいや。私もおじさんにまた会えて嬉しいし」
「そっか」
 本物の天使になり、無事に生まれ変わったおじさんが笑う。
「天音くん。今度は君が責任とってね」
 わたしをつれていってしまったのだから。
 私の心に居座ってしまったのだから。
 ――責任はとってもらわないとね。

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ハツハレ

hamapito

みんな、ではなく。だれか、の心に残る一文を。
思い合う温かさとすれ違う切なさ「両片想い」を愛する文字書き。



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