果てに響く音色
Rabyu_ut/卯咲うらり

済みきった空の色を写し取った髪は、今や灰青く、ところどころくすんでしまっている。神童ともてはやされた少女マチルダは、ずば抜けた知力と引き換えに、肉体的な若さを急速に失っていった。恐るべきことに、脳に近いためか、愛らしい顔はそのままに、脳から遠い、足が先に老いていき、彼女は歩けなくなった。まるで頭だけ、老いから置いていかれているかのようだった。
ぎこちない動きで、しわの増えた骨ばった手を擦る姿を見ると、マティアスは心に小石が転がる痛みを感じていた。
「先生。ご相談が」
マチルダの相手をバドーに任せて、マティアスは賢人である彼に思いを打ち明けようとしていた。話があると言ったきり立ったままであるマティアスを見かねて、彼は椅子を勧めた。
バドーと悪さばかりして暴れていた悪童が、すっかりなりを潜め、一端の男らしくなったのは、マティアスが責務を背負ったからなのだろうと先生は感慨深く思い、居ずまいを正した。
「君の考えていることは、禁忌に触れる。また悪事を働くつもりかい?」
先生は先に釘を刺した。マティアスの考える唯一の道は、マチルダが可能性を導き出さなかった優しさを踏みにじるもので、人の道を外れた険しいものだ。
「マチルダのためなら何でも」
聞く方が愚かだったと先生は、テーブルをトンっと叩く。マティアスはマチルダを妹のようにかわいがり、二人は幼少期から家族同然に育ってきた。血のつながりなどなくとも、マティアスがマチルダの奇病を治してやりたい思いは、肉親に抱くそれ以上に深いものなのだ。
「分かった。手短に済ませよう。バドーはマチルダに惚れているからね」
「手を出したら、俺は四発は食らわせると決めてある。一発はマチルダがやるからな」
マチルダの方だって、マティアス以外の誰かと一緒になり、添い遂げようとする気はさらさらないだろうに。彼らの間には、性愛や男女の恋愛といった感情はなく、ただ地よりも深い親愛によって、固く結ばれているだけだった。
「木の根は地層の奥深くまで、際限がなければ理論上、どこまでも根を張ることができる。どんな環境下でも生き残る種の根は、ことさらに生命力が強い」
「こっちに戻れる綱がないとですからね……」
普段ならまどろっこしいことは言わない彼が口ごもるので、先生はぴしゃりと言い放った。
「私は短くと言ったんだ。早く言ったらどうだ、マティアス」
遠くで悲鳴がした。バドーのものだ。マティアスは席を立って、先生に頭を下げた。
「どうか、俺たちについてきてください、先生」
先生はただ「わかった」とだけ言って、足早に駆けていくその背中を見送る。
「あとはマチルダをどう説得するかだな。技術的な問題はマチルダ次第でどうとでもなるからね」
感情の高ぶったレディは泣いてしまって手がつけられなくなるかもしれない。バドーも良い加減を見極められないから、毎度火傷ばかりで手に負えない。
「やれやれ。老後は湖畔でゆっくりしようと思っていたのに」
わんわんと泣く声が上がる。やはり行くしかないのだ。若い彼らが道を誤らないように、時に伴う順当な老いを先に経験する者が、心ばかりの導線でも張ってやらねばと、彼は腰を上げた。
「具合はどうだ、マチルダ」
足を擦り終えたマティアスはマチルダにたずねた。マチルダはパチリと目を開け、彼の目を見て言った。
「目が痛い、のども。体が疲れたの。でも、頭はちっとも疲労していないわ」
解いていたポンチョのボタンを彼が合わせ終えると、マチルダはその腕をつかんで揺らした。
「ねぇ、マティアス。このボタンは賢いのよ。二つじゃないの。四つも穴が空いているの。あなたが力加減をまちがえてもそうそう引きちぎれやしないわ。ほら、頭はいつも元気でしょ、わかった?」
マティアスの用事や家事が片付くまで、マチルダは待っていたのだろう。これ以上、彼女を待たせるのは忍びない。彼女の老いは常人の早さの比ではないからだ。
「マチルダ。俺はマチルダの病気を治す方法を探しに行きたい。知恵を貸してほしい」
橙色の明かりでは、彼女の肌の凹凸をはっきりとは視認できない。それでもマティアスが彼女の肌を擦る度に、傷ついた顔をするのに彼女はほとほと呆れていたのだ。
「愚鈍ね。変な罪悪感を抱えるなんて。私はあなたのためにうんと賢くなってあげたんだから、とびきり素敵な口実を作ってあげる」
たどたどしい動作でマチルダはマティアスにしがみつきながら、上体を起こそうとする。マティアスは彼女を手伝って抱き起こした。
「探しに行くんじゃないの。私たちは冒険に行くの。色んな景色を見に、見たことのない世界に行くのよ。ただ行くだけ。結果なんてついてこなくていいの!」
『私ね、マティアスとならどこでも行けるよ!』足の自由を失って嘆いていたのは、マティアスの方だった。肩を落とす彼に、マチルダは『だから、私を連れて行って』と強く揺さぶった。
彼女よりも先に生まれたマティアスは、彼女より先に老いていくはずだったのに。かけがえのない義妹は、時など超越して、どんどん歳をとっていく。同じ時を一緒に過ごしてきたはずなのに、彼は自分が遅いせいで置いていかれてしまっているようで、ずっと申し訳ない気持ちでいた。
「行きましょう、マティアス。どこまでも。世界はきっと想像もできないほど、広いわ」
早く追いつかなければ、彼女の進む時を止められない。閉じた世界で二人だけで寄り添って生きていたいと思っていた彼を連れ出すのは、いつだってマチルダの方だ。
「私、マティアスのお話、とっても好き。新鮮な空気みたいで、胸にいいの。だから、いっぱい聞かせてね」
学識などろくに持ち合わせていなかったマティアスは、先生から書物の読み解き方を教わり、必死にかじりついてそらんじていた。バドーに嘘か本当か分からない逸話を吹聴され、マチルダに伝わる頃には、先生が教えた話から離れ、歪な物語ができあがっていた。彼女が望まなければ、マティアスは学ぼうとなんてしなかっただろう。
「私ね、夢があるの。あなたもきっと知ってる。だから、マティアス。あなたの気が済んだら」
万物の老化を止める方法は……。黄金の髪を持つ男の、三日月にしなる口が言う。やけにゆっくりと動く口唇。あまりにも遅くて、言葉が一つの音として流れていくだけで、頭の中に一つも意味のある言葉を残しやしない。
探し求め、辿りついた答えは、あの子の言っていたことに関係するものだった。あの願いをどうして忘れてしまったのか。
『いいかい。道しるべを離してはいけないよ。引き返す道を常に心に留めておくんだ。そして、君は必ず』
『次男だから馬鹿の振りをしてたが、俺は医者の端くれだ。お前の性悪を治してやる。これを持って早く』
誰か何かの音たちが遠ざかっていく。うんと昔に記憶の中で、響いていたはずの言葉たちは、もうその意味も形も崩れて朽ちていってしまった。
「冒険は楽しかったかい? どうして帰り道の分まで取っておかなかったんだろうね、君は」
首元に手をやる。紐は細り脆くなっていて、千切れてしまった。
「末端に行けば行くほど根は、本体の記憶を完全には引き継げない。強い生命情報だけが伝わるんだ」
指に残る固い感触。四つの穴が円形に並んで空いている、平たい丸い石。なぜこれを紐に通してずっと運んできたんだろう。
「世界線を越える代償は、記憶を失っていくことじゃないんだよ。新しい環境に適応するために古い自分の情報を捨てていくから、果てへ行くほどに、繰り返し反芻した強い思いしか残らなくなるんだ」
何か思いを持って、このかたまりを持ち続けたはずなのに。意味を失ったそのガラクタを今すぐにでも捨ててしまいたいほど、無価値に思えてしかたなかった。
「君の過ちはただ一つだけ。彼女がもう世界線を越えられなくなった時点で、止まるべきだったってこと」
一筋の強い思いさえ、継げないほどまで遠くへ来てしまった。残ったのは、ただただ途方もないむなしさだけ。
「馬鹿だよね、本当に。あの娘は老いの早さを止める方法をもう知ってて行かせたんだよ」
同じ色をしていた肌。日に焼けて、生まれ変わるものと、干からび退色していくもの。
「新鮮さってのはさ、寿命を延ばすんだってね。彼女はだから、心の冒険を選んだんだよ」
同じ速度で歩いていた足。どんどん一人で遠くへ行けるものと、一人ではどこへも行けないもの。
「愛しい人を待ち続け、恋しく思う日々はさぞ良い薬だっただろうね」
果てしない草原と空の色を成していた髪。いつしか、夕闇に染まるものと、一抹の青さを残してくすんで灰化していくもの。
「知者であるこの俺が、年端もいかない娘の思惑通りに動かされるのも癪だから、意趣返しに願いを届けにきてやったよ」
ポトリと落とされたのは、根っこだ。小さくなって干からびている。
「ずっと馬鹿みたいに名前だけを呼んでいたよ」
「届くわけないのにね」それきり嘲る声は止んだ。ずっと馬鹿にされてきた。親も知らず、学もなく、盗みばかり働いて、暴力と悪事に明け暮れていた。
暗い道ばかり歩いてきた。道の端でぼんやりと光る灯が目に入ってきたとき、到底手が届くものではないと分かっていたのに、手を伸ばさずにはいられなかった。眩しさに心を引かれ、そのまま初めて抱いた命の重み。小さな朽ちたゆりかごが産声を上げた。
『マティアス』
朽ちていくばかりで、誰もがいつかあきらめてそっと手を離していく。あなたは見返りも求めずに、ただただ私のことをいつも思ってくれていた。私が私ではなくなっていっても、どんな私になってもあなたはずっと私を離さない。老いが広がって朽ちていく、迷い道にいる私ごと、際限なく抱きしめてくれる、あなただけが私の物語のすべてなの。
『マチルダ』
意味を忘れられた石が呼びかえす。ずっと、彼女の響きはここに留まっていたのだ。
二人の冒険者の音は果ての地で、響き合い、撚り合って、共に元いた場所へと還っていった。