雲隠れのロビン
1
見習いの朝は早い。
ロビンは勢いよく布団をはねあげて体を起こした。栗色の髪が跳ね回る頭を厚ぼったいセーターに無理やり押し込んで、うーんと伸びをする。
与えられた小部屋はそれだけでいっぱいだ。
作り付けの寝台、手頃な大きさの書き物机、衣類その他をおさめた長持。ぐるりは城壁のごとく本が山積みになっている。下の方は読んだもの、上の方はこれから。一応、山ごとに分類はしているつもりだが、これは本人にしかわかるまい。
屋根裏の自室からおりると、居間は少しだけ暖かかった。火の名残にまじって薬草のにおいが鼻をくすぐる。闇に慣れた目にぼんやりと浮かぶ輪郭だけをたよりに、そろそろと暖炉へ向かった。
たまった灰はていねいに掻き出し、熾火の上に乾いた薪を組む。ランタンに火を灯したマッチをそのまま投げ入れると、暖炉がぶるっと身震いした。
「おはよう」
声をかけつつ木の実をいくつか投げ込むと、やがてぱちんと音をたててはじけた。香ばしいかおりも一瞬のこと、暖炉のあるじ、めざめた〈火の手〉はそれすら惜しむように中身だけを器用に拾い上げ、どこにあるとも知れぬ腹へおさめる。
壁面のすべて、扉の上にいたるまで、この家は棚と物入れでできている。大小かたちもさまざまな瓶や鉱石、人を含む動物の骨、逆さに吊るされた薬草の束や燐光を放つ菌類のかたまり。道具は硝子や琺瑯、銅には緑色の錆が散っている。もちろん書物も多いが本の形をなしていないものはさらに多かった。乱雑に積まれた紙の類はホコリを吸って嵩を増し、いつでも崩れる準備ができているので掃除のさい悩みの種になっている。
ロビンなりに大まかに分類しようと試みたものの、師匠のもちものにはおよそ統一感というものがない。正直手に負えないのと、この混沌こそが魔法使いの家らしく魅惑的なこともまた事実だったので、手入れは事故が起こらないていどにとどめていた。
不意に視界が暗くなる。
〈火の手〉は身をかがめてこちらを窺っていた。どうやら朝食が足りなかったらしい。
「まあちょっと待っててよ」
すぐ戻ってくるからそのまま起きててよね、となだめすかしながら、ロビンはランタンを手に霧のたちこめる森へ出ていった。
「うう」
用事をすっかりすませ、朝食の支度が出来た頃に、師匠が奥の自室から這い出してきた。食卓にたどりつくなりやっとのことで二足歩行に進化して、ぬうっと立ち上がると急に部屋が狭くなる。
魔法使いイグニス。
一夜にして一国をも滅ぼすともいわれた、伝説の魔法使いである。
縦に長く彫りが深い面立ちは、無精髭のために盗賊めいていかにも人相悪くうつる。朱銅色の髪は朝陽に透けて炎のよう。ひょろりと大柄な体躯には、くぐり抜けた死地のぶんだけ傷が刻まれているという。
とはいえ、大あくびをしているとひどく年若く無防備に見えた。実際の年齢はともに暮らすロビンも知らないが、世間話と変わらぬ調子で語る話題の古さにはいつもぎょっとさせられる。
「師匠、のんびりしてる暇ないですよ」
フライパンを火からおろし、めいめいの皿にさっと盛り付けると、食卓にかぶさるように背を丸めていたイグニスがスンと鼻をひくつかせて目を開いた。
「おお、今日は焦げてない」
「黄金胡桃が見つかって。今日の火加減は最高です」
暖炉からどうっと炎が噴き出した。滅多にお目にかかれない好物に機嫌をよくした〈火の手〉がこちらに手を振っている。おざなりに手を振り返して、厚切りのパンにかぶりついた。
ごく一般的な胡桃の木から、稀に黄金色の実が見つかることがある。出会えるかどうかは運次第、森の祝福とも言われるこれが、〈火の手〉とイグニスの大好物だった。少量でも力がみなぎる栄養価の高さから、おもに旅人のあいだで重宝されている。
香りにつられて、使い魔たちも起き出してきた。物陰からあふれるようにすべり出た二匹にも、黄金胡桃を少しずつ分けてやる。ぺろりと舐めたとたん、かれらは群青の毛並みをぶわっと逆立てた。弄ぶように転がしたのちようよく飲み込むと、ぴたりと前脚を揃えて並ぶ。期待に満ちた青と金のオッドアイがふたたびこちらを見上げた。
眠り猫のファゴとファル、見た目はそっくりだが、右目が青いのがファゴ、金色がファル。目を見れば見分けがつく。
「そんなにたくさんないよ。これは僕のぶん」
皿を持ち上げて隠すようにすると、意図を察したのか急に愛想をなくして立ち去っていった。
眠り猫には催眠のちからがある。そうでなくてもゆったりと尾をくゆらす様子に眠くもなろうというもの、あまりじっと眺めていては寝床に逆戻りだ。ロビンは努めて視線をそらした。長くてふわふわの毛、もちもちとした足先、愛らしい見た目も戦略のうちと思うとなかなかにおそろしい。
ああ、なんと平和な食卓。こんな時間がずっと続けばいいのに。谷間の小さな屋敷にやっと差し込んだ朝日に目を細めながら、ロビンは炙り塩漬け肉をかみしめる。
使い魔たちがぴた、とうごきを止めたのをみとめて、ロビンはあわてて最後のひとくちを流しこんだ。
「おいでなすったな」
「今日はまた早いですね」
そそくさと自室に引っ込もうとするイグニスを、ロビンが咄嗟につかまえた。手にした飲み物がたぷんと波打ち、危うくバランスをとった師匠は心底嫌そうに振り返る。
「俺がいても仕方ないだろう」
「諸悪の根源が何を言ってるんですか。逃がしませんよ」
ファゴとファルも前足を揃えて行く手を阻んだ。分が悪いとみたイグニスは、舌打ちを返事代わりに食卓に戻った。間を置かず、玄関の扉がノックされる。
「おはようございまーす」
「いるんでしょう、わかってますよお」
ドアを叩く音は鳴り止まず、樫の木で誂えた分厚い扉がガタガタと揺れた。息をひそめることしばし、やがて声が止んだと思うと、今度はしゅるりと紙がすべりこんできた。ファルが右脚ではし、と捕える。その一枚を皮切りに、扉のすきまから次々と紙が吐き出された。
請求書、請求書、督促状、苦情申立書、依頼状、依頼状、督促状……
ひらひらと舞う紙片を戯れに追うファゴとファルの後をついてまわりながらそれらを集める。毎日のことなので、遠目に見ただけで内容の見当がつくようになってしまった。
ああ、胃が痛い。
「俺はもう引退した身だからな」
そういうわりにイグニスの身辺はにぎやかで、こと金銭と女性関係のトラブルには事欠かない。過去の因縁も頻繁に再燃する。おとなしくどこかへ仕えれば暮らし向きも楽になるだろうに、そればかりは断固拒否し、町のひとびとのこまごまとした依頼をこなして暮らしていた。
「そろそろ頃合いだな」
「……そうですね」
てんで相手をする気のない師匠に代わって、間に入るのはロビンの役目だ。
顔を合わせれば醜い言い合いにしかならないので、文句のある客には一度帰ってもらい、頭が冷えたころにロビンがこちらから訪ねていく。相手もそれはわかっていて、だから要求を書類にしたためて投じていくのを忘れない。
ロビンは、両てのひらを床に伏せて、ひたりと重ねた。身体の奥で光の円環がまわりはじめる。押さえつけるような力がロビンの両肩にかかり、足を踏ん張って耐えながら、重ねた手をこんどはゆっくり引き離す。
外の物音が止んだ。一時的に位相がずれたのだ。次元転移を伴う目眩ましの一種で、実体に干渉するので広範囲には使えないが、逃げ足としてはたいへん有効な、そしてたいへん小狡い手段である。
師匠がいっこうに教えてくれないので、まともに使える魔法はひとつきりだ。外見をすり替え、見るものを誘導する、すなわち目眩まし。不思議なことに、この手の魔法だけは幼い頃から何不自由なく使える。
「毎度のことながら、見事な隠蔽体質だな」
「その言い方やめてもらえますか」
身を隠すことばかりが上達して、このままではこそ泥くらいしかなりようがない。
師匠にいいように使われているだけな気がして、ロビンは長い溜め息をついた。