炊くべきか炊かざるべきか
猛暑である。日曜日の夕方というにはまだ明るい時分、後輩で同居人の沢村が台所で腰に手を当て首を捻っている。
「うーん」
「どうした」
「いや、米炊こうかどうしようか……」
「あー」
こうも連日暑いと主食は冷たい麺ばかりになる。米は沢村の家からどっさり送られてくるので順次消費せねばならないが、今はあのホカホカに心が動かない。
「さすがに食わないと減らないしな」
「ていうか、ここんとこスッキリ出ないんすよ」
「なにが」
「大」
「は?」
なんのことだ、数秒考えて思い当たる。
「……知らないよおまえの便通事情はよ!」
「えっどうですか、ウンコのキレ悪くないですか」
「なんでそんなことお前に言わなきゃなんないんだよ」
と言いつつ、言われてみればなんとやら。思い当たるふしは無くもない。
「やっぱり日本人は米食べるようにできてんのかな」
「そうかもな」
ウーンと揃って腕組みする。
「たまにはおれが作ろうか。カレーとか」
こちらを向いた沢村の眉はしかし寄せられたままだ。
「なんか違う……」
「人の顔見てその言い草はやめろ」
「すいません」
冷蔵庫を開けては閉め、調理台の下の引き出しを開けては閉め、さらに思案して、沢村は何かしらの決意をかためた様子。
「ちょっと買い物行ってきます」
「え、おい」
「先輩は米炊いといてください。三合でいいです」
「わ、わかった」
沢村は折りたたんだビニール手提げと小銭入れだけ尻ポケットに突っ込んでどこかへでかけていく。俺はおとなしく分量どおりの米をざるにあけて、水を流しつつ研ぎ始めた。
ほどなくして、玄関からガチャン、ガサガサ、と音がする。リビングに現れた沢村は、謎の大枝を持ち帰っていた。
「なに買ってきたの」
「枝豆です」
袋を持っていった意味ははたしてあるのか。疑いたくなるほどの、まさに枝つきの枝豆であった。七夕の笹のように紐で括られ辛うじて束にしてあるが、それでも沢村が抱えるほどある。
「そんなにたくさん……どうすんの」
「イヤこれ豆だけにしたらそうでもないっすよ。茹でといたらなんだかんだ食べるっしょ」
「まあな」
いつもはスパゲッティを茹でる大きい鍋にたっぷり湯を沸かしながら、沢村愛用のキッチンバサミでさやをはずしていく。
「ちょっとした収穫作業だな」
「それ、ガチの農家に言わないほうがいいっすよ」
「すいません」
枝からはずしてもやっぱり相当な量になった。沢村は、俺が収穫、もとい切り落としたさやをざっと洗うと、塩をふりかけてごしごし握り、地獄の釜のごとき鍋の中へ放り込んだ。
「ちょっと混ぜといてもらえますか」
菜箸を渡されて、立ち位置を入れ替えた。ぷかぷか浮いてくる枝豆を押し込みつつかき回す。
「吹きこぼれそうだから火弱くしていい?」
「いっすよ」
沢村は答えながら手元で梅干しの種をはずし、荒く刻んでたたいている。まとわりつくシソの葉がでかいのは、それが市販品ではないからだ。
「おまえそれ」
昨年、手作りにはまった母が思いつきで漬けた梅干しである。作業工程をいちいち家族ラインで送ってきて、あまりの頻度に既読スルーしたのだった。未読のままにしないのは、見ていないと安否確認の電話がかかってくるからだ。そのときの履歴を見れば、俺だって梅干しを漬けられるにちがいない。
そんないわくつきの梅干し、というわけでもないが、もともとそんなに好きじゃないので保ちがいいのを理由にすっかり放置していたのだった。
「使わしてもらいます」
「助かる。でもこれ、何になるんだ?」
「まぜごはんすよ。あ、そろそろいんじゃないすか」
鍋の中身をざるにあけると、シンクの上が湯気でまっしろになった。ついでに俺の眼鏡もまっしろになって、視界が回復するまで鍋を持って立ち尽くす羽目になる。
「味噌汁くらいつくるか」
そうつぶやいた沢村は俺のほうを振り向いた。
「灰色のやつでいいすか」
「ああ、ナスか」
沢村はそれを諾ととったらしく、片手鍋をサッと火にかけ、材料を刻みはじめた。このあたりの手際の良さには舌を巻く。俺だったらはじめにメニューを決めておかねば作れない。しかも多分、一品ずつ順番だ。
無職になった俺は、未経験歓迎の軽作業を任された。枝豆の皮むきである。さやから取り出せばいいだけかと思ったら薄皮まで剥くらしく、これがなかなか難しい。
「おい、この枝豆いきがいいぞ」
「どこ向かって発射してんすか、ちゃんとボウルに入れてくださいよ」
つまんだ指に力を入れれば剥けるのだが、豆本体が弾丸のように飛び出し制御がきかない。床に落とすたびに水洗いしてもどるのがさすがに面倒になって、途中から片手でガードすることを覚えた。
これで作業効率は上がったものの、なにぶん量が多い。単純作業は嫌いじゃないが、やっぱり量が多い。それでもさやの山が減っていけば嬉しいもので、もくもくと無心で剥き続けていると突然、成果物が横から攫われた。
「はい、ありがとうございましたー」
「えっ、もう終わり?」
「どんだけ皮剥きたいんすか、残りは置いといてまた今度食いましょうよ」
炊飯器は蒸気をあげてラストスパートに入っている。枝豆、たたいた梅干し、沢村はさらに白ごまの袋を取り出して布陣を整えた。
あとは炊きたての白米に混ぜ込むだけ。俺はちょっと思いついて、冷凍のからあげをレンジにかける。
「うまいな」
「うまい。これだけでもメシが完結するやつ」
物足りないかと思ってからあげを追加したが、よく考えたら枝豆はいずれ畑の肉に育つのだった。枝豆ご飯だけでもかなりの食べごたえだ。白ごまはプチプチと香ばしく、梅の酸味がさわやかに香る。具材を混ぜたことでほどよく冷めて、塩気もちょうどいい。とろっと煮えたナスで流し込むと、冷やし麺並みにつるっと食がすすんだ。
「明日スッキリ出るかなあ」
「メシどきにお前は」
「何とは言ってないじゃないですか」
さーておかわり、と沢村が席を立つ。三合は多すぎるのではと危惧したが、どうも杞憂だったようだ。
休みが明けて月曜日。昨晩の枝豆ご飯はおにぎりにして持ってきた。塩昆布でお茶漬けにしようと会社の給湯室に持ち込んだら、たまたま居合わせた同僚の藤本さんがじっとこちらを見ている。
「松橋さん、自炊とかする人でしたっけ」
「最近するようになったんだよ」
「なにか心境の変化でもあったんですか」
「心境っていうかいま、ひとと住んでて」
「彼女ですか!」
「食いつくなあ。残念、男だよ」
「……は?」
突然の低音。いつも穏やかな藤本さんの顔が一変していた。明らかに挙動と首の角度がおかしい。一緒にいる吉田さんはどこか遠くを見ているが、俺はなにかおかしなことを言っただろうか。
「……それ作ったの、同棲してる方ですか」
「同棲ではないんだけど。ほとんどあっちがやってくれたよ、俺は手伝いていど」
「ちょっと、ちょっと待ってください、それはいったいどういう福利厚生ですか」
「え、何言ってるの藤本さん」
詰め寄られて怯える俺に、吉田さんが「早く行け」と身振りで示す。なにか良くない予感がして、お湯だけ注いで慌てて給湯室をあとにした。