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耳もとに春

 膝の上に、蝶が眠っている。
 そう思うと美野(よしの)は落ち着かなかった。
 買っちゃった、買っちゃった、つけていく当てもないのに買っちゃった。淡い紫のグラデーションがきれいな、蝶の耳飾り。
 久しぶりに出かけた街の大きなビルで、いろんな分野のクリエイターを集めた大規模なマーケットが開かれていた。通りすがりにのぞいていくだけのつもりが、その一角に思わず息を呑む。水辺に集まるような蝶の群れ。そっと声をかけられて見上げたら前髪をすっきり上げた素敵な女の人と目が合った。目元と爪先に施された新緑カラーが鮮やかで、口元のオレンジがとてもよく似合っていて、白いブラウスは不思議な形をしていて、こういうオシャレをしてみたい、と痛烈に思った。
 促されて手にとった蝶は想像よりもずっとやわらかくて、革でできているのだと教えてもらった。おろしたままの髪と一緒に耳にかけてみる。すると耳から翅が生えたみたいで、自分でもびっくりするくらい胸が高鳴った。その後さんざん悩んだ挙げ句、なんとかひとつに決めたのだ。
 紙手提げは白いキューブ、持ち手はターコイズブルーの幅広なサテンリボン。のぞきこむと、透明なケースのなかで蝶がじっとしている。きっと外につけていく勇気は起きないだろう、自分の部屋で恒例のひとりファッションショーをするのだ。それでいい。この蝶が手元にあるかぎり、私はあの人を忘れないし、あの胸の高鳴りを思い出せる。そしていつか私も、あんなふうになれるかもしれない。これはお守りのようなものだ。
 そんなことばかり考えていたから、車内アナウンスも耳を素通りしていた。一斉に動き出す人の流れに慌てて窓の外を見ると、ここが降りる駅だった。転がるようにまろび出て、深くついたため息にうっすらと漂う土の香りを吸い込む。美野の地元は住宅と畑がまだらに入り交じっていて、春のこの時期はあちこちの土が掘り返されて独特のにおいがする。ほっとするようながっかりするような、そんな気分で階段に向かう。
 それでもいつもより気持ちが明るくて、顔を上げていたからぱっと目に飛び込んできた。久しぶりの買い物で浮かれていたせいも、その色のせいもあったかもしれない。淡い紫、というよりは菫色のシャツの、同い年くらいの男の子。耳にはシルバーのピアスが光っていて、でも全然怖そうじゃない。男の人のシャツはなんというか、面積が大きい。それが歩くたびにふわりとはためいてこちらへ向かってくる。
 ああ、今日はすごい日だな、きれいなものをたくさん見ちゃった、もう一生分見たかもしれない。
 その彼と目が合ったことで自分が思いきり凝視していたことに気がついた。慌てて目をそらすも向こうはそのまま歩み寄ってくる。階段でついに合流してしまって、注がれる視線にいたたまれず首を縮めていると、ついに彼が口を開いた。
「あの、よしのちゃんだよね?」

「びっくりした、全然気づかなかったよ」
「よしのちゃんは変わってないね。俺、すぐわかったよ」
 男の子に下の名前を、しかもちゃん付けで呼ばれるなんていつぶりだろう。竹内くんは小学校の同級生で、呼び方もその名残だとわかってはいるけれど、実際に体験すると破壊力がすごい。あの頃は私よりも小さかったのに今は見上げるほど背が伸びて、駅前のベンチに並んで腰掛けることでやっと目線が合った。さらに竹内くんは、太ももに肘をつく形で身体を折り曲げている。
「もうちょっとどうにかしたいとは思ってるんだけど……」
 楽しい気持ちが声と一緒にみるみるしぼんでいくのがわかる。ベージュのパーカーにホワイトデニムのボックススカート、髪はまっすぐおろしたまま。ペーシックとかシンプルとか言えば聞こえはいいけど、私の服装センスは小学生の頃からほとんど変わっていない。大学生になったのに、メイクもろくにしたことがない。親しみと懐かしさを込めた彼の言葉は、悪気なく私を追い詰める。
「どこ行ってきたの、ていうかいまも実家?」
「実家。今日はちょっと、買い物。竹内くんは?」
「おれも実家! 大学も通える距離だし、金ないし」
「一緒だ」
 もっと話してみたい、でも話すことが思いつかない。これではキャッチボールというよりシュートだ、私は受け止めるだけで精一杯。
「ね、それなに。今日買ったやつ?」
「あ、うん」
 会話を続けてくれたことにほっとして手元が狂った。跳ねて転がった紙袋から蝶がこぼれ出て、さっと伸びた竹内くんの大きな手におとなしく収まる。
「うお、ちょうちょだ。アクセサリー?」
「そう、イヤーフックって耳にかけるの。つけてみる?」
「なんでよ、つけるならよしのちゃんでしょ」
「え……」
 変なことを言ってしまったかもしれない。でも、竹内くんなら似合いそうだと思った。それこそ、私よりずっと。
「ちょっと恥ずかしいんだけど。ここで?」
「うん。見てみたい」
 こんな形で他人に披露することになろうとは思ってもみなかったけど、逆に言えばこれが日の目をみる最後かもしれない。つけたほうの耳を思い切って竹内くんのほうに向ける。なんだか弱みを晒しているみたいで落ち着かない。首と横顔があまりに無防備だ。
 お願いだから何か言ってほしい。
「似合わないのはわかってるんだけど、あまりに可愛くて……」
「いや、似合わないってことはないけど」
 竹内くんの否定は素早かった。
「まあ、たしかにいまの服のかんじだと合わないかもね」
 がーん、と頭の中で効果音が響いて、思わず竹内くんの顔をガン見してしまった。こんなにはっきり言われるとさすがに堪える。
「あ、いやバランスっていうかテイストってあるじゃん」
「テイスト……?」
「あーやばい目がやばい」
「いや、私だってわかってるよ、ていうかわかんないよオシャレってなに……いいよね竹内くんは背も高いしかっこいいし春色のシャツだってサラッと似合っちゃう……」
「えっ、なに俺褒められてんの、の割にあんまり嬉しくないんだけど」
「オシャレになりたい……」
 脳裏に浮かんだのはこの蝶を生んだあのひとのこと。私もあんなふうに、素敵なものを気負わずに身につけられるようになりたい。見た人がハッとするような、そんな装いがしたい。
 口にした願望すら垢抜けなくてますます落ち込んだが、竹内くんは隣でなにか真面目に考えてくれている。いいのにもう。
「わかった。俺いいこと思いついた」
「へ?」
「友達紹介するよ。こういう話なら、俺よりよっぽど頼りになるから」
 否とも応とも答えないまま、あれよあれよと言う間に連絡先を交換して今度の水曜の四限終わりに竹内くんの大学に行くことになった。竹内くんが慣れているのか私が流されやすいだけなのか、ともあれまた会う約束ができてちょっと嬉しい自分が情けない。

 予想はしていた。してたけど、竹内くんの影から現れたのは「これはあんまりじゃないか」ってくらいかっこいい女の子だった。すらりと細身にまとめた服装に、大きなバッグがよく似合う。私のなかの淡いなにかが砕け散る音がした。
「はじめまして、橋本翠です。なんか、私服いっぱい貸してほしいって言われたけどどういうこと?」
「えっ、竹内くんちゃんと言ってないの」
「やー、うん」
「こういうやつだよ」
 二人の打ち解けた様子に胸がじりじりする。ひとの大学まで私は何をしに来たんだろう、と思い始めていると、竹内くんが「よしのちゃん」と呼ぶ。
「あれ持ってきた?」
「え、うん」
 半分帰りたい気持ちで蝶を取り出す。つけてくる勇気はやっぱりなくて、買った時の透明ケースに入れてバッグに入れてきた。
「うわ、かわいい。なにそれイヤーフック?」
「そうそう、これに似合う服が知りたいんだって」
「なるほどね」
 翠の食いつきは激しく、私はすこし誇らしい。同時に、彼女ならよく似合うだろうなと納得する。
「うわあ、めちゃくちゃ楽しそう。んじゃ行こっか」
「え、どこに……」
「あたしんち!」
 さすがに外で着せ替えするわけにいかないでしょ、とにっこり微笑まれて、美野はどぎまぎしながら何度も頷いた。

「いきなり服買いに行くよりいいよね。考えたじゃん」
「まあね」
 大学近くの翠のアパートになだれ込み、そこからは怒涛のようだった。更衣室は洗面所で、翠がコーディネートした服に着替えては登場して写真を撮られる。はじめは気恥ずかしかったが、回数を重ねるうちに麻痺してしまった。なにせ翠がノリノリなのである。途中で髪もすっきりまとめてもらって、軽くメイクもしてもらって、ボトムスはどうしても少し長かったけれど、それでもなんとなくテイストというのがわかってきた。見た目はシンプルだけど同じ色の刺繍が入っているドレスシャツ、首周りが横に広く開いたプルオーバー。スキニーパンツは美野の脚では入らなかったので、柄物のタイパンツや袴のようなワイドパンツが大活躍した。
 翠ちゃんは素敵な女の子だった。見た目はとてもクールなのに、中身が熱いのだ。買ってはみたものの自分ではどうしても似合わなかった服を持ち出してきて、私に似合うと見るや口元を覆って喜びに打ち震える。その多くが花柄モチーフやギャザーの入ったふんわりしたもので、彼女のような人でも思うようにならないことがあるのだとしんみりした。
「その服あげる、持ってって。きっとそのために買ったんだわ」
「え、でも」
「でもあれだ、さすがにタダは私も苦しいので、半額くらいで手を打ってもらえると……」
「いやそんな、全部払うよ」
「いいから」
 この押し問答をよそに、竹内くんは猫みたいにまったりとあくびしている。
 帰る頃には、私はすっかり翠ちゃんのファンになっていた。

 

 それから、美野は翠に連れられていろんな場所に出かけた。翠が強く推すので蝶の耳飾りはどこへ行くにも一緒で、美野が服を選ぶときのキーアイテムになっている。翠は古着やリメイクを取り入れるのも上手だから、覚悟していたほど散財せずにすんだ。
 実は、お店の人が怖くないとわかったのが美野にはいちばんの大発見だった。希望を伝えると皆全力で応えようとしてくれる。よくわからないものを勧められていたのは、こちらが何も伝えなかったから。わからないなら教えてもらえばいいし、そのことも伝えればいいのだ。
 翠をはじめ、美野が見てもオシャレだとわかる人たちが自分のためにあれこれ考えてくれているのはとても気分がいい。自分もしっかりしなきゃと背筋がのびる。見られるのが大事ってこういうことなんだなあ、と身にしみて理解した。自分を大事にしてくれる人のために、自分を大事にしようと思うのだ。
「なんか俺より仲良くなってない?」
「ははは、妬くな妬くな。なんなら試着室だって一緒に入っちゃうもんね」
「翠ちゃん!」
「ホントそういうのやめろよお前」
 オシャレはまだまだ途上だけれど、どこか向こう側だと思っていた人たちの間にすっかり馴染んでいるのが嬉しい。私に春を運んできた蝶は、今日も耳もとでゆっくりと翅を休めている。

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