異星の人
「ちょっ、くすぐったい、やめて」
なんとか逃げ出そうと身をよじる、その弾むような身体をしっかりと抱え込んで、アーサーはさらに念入りに奥を探った。それでも恋人から発せられるのは健やかな笑い声ばかり、上掛けの下では一糸まとわぬ姿なのに、ふたりの間には色気よりもあたたかな親密さが通う。
「気持ちよくないのですか?僕が調べたところ、こうすると八割以上の女性が腰砕けになると」
「な、なにそれ腰砕けって、あはは、私はのこりの二割のほうなんじゃな、や、やはははは」
「いやでも、これはこれで魅力的」
「何言って、あ、あはははは、あーーーっ」
声の合間に喘鳴がまじる。少しやりすぎたようだ。アーサーが攻勢をゆるめると、恋人の新は荒く息をつきながらぐったりと胸に凭れかかった。
「はー」
「なかなかうまくいかないものですね」
「ごめんね、なんか笑っちゃって」
「いえ」
他の方法も試してみましょう、と微笑みながら次の作戦を練っていると、不意に新がきゅううと丸まって、つむじしか見えなくなってしまった。
「くすぐったいのもあるけど、半分は、照れもあって。でもちゃんと、えと」
さらに丸まったので、アーサーのみぞおちのあたりにあたたかな息がかかる。
「……きもちよかった」
普段の快活な彼女からは想像できないような、ちいさなちいさな声。
アーサーはひょいと眉を持ち上げたのち勢いよく上掛けのなかに潜り、薄暗いぬくもりのなかで恋人の目を捉えた。
「なら、もう少しこのまま、試してみましょうか。いっそ同時に……」
「いや、ちょっと待って、うそ」
図らずもアーサーの探究心に火を点けてしまったらしい。
慌てた新のばたつく手足ごところりとひっくり返し、アーサーは今度こそ動きを封じた。額に垂れた金糸の髪、その向こうの表情の小難しいこと。とても情事の最中とは思えない。でもそんなところが彼らしく、愛しくて頬が緩む。
じかに触れ合う素肌があたたかくて心地いい。新はとうとう抵抗を解いた。温んだ身体が心を溶かし、今度こそ吐息となって漏れ出した。
「おまたせしました、おまかせ六点、塩ですねー」
「ありがとうね」
「すいませーん」
「はあい!」
賑わいに満ちた金曜日の夜。コの字型のカウンター内でくるくる働きながら、綿貫新はある客に気をとられていた。
最近よく見る外国人男性である。年の頃は三十代なかばくらいだろうか、仕立てのよさそうなシャツ、白皙に淡い金色の髪をすっきりとなでつけて、襟元も緩めずにシャンとカウンター席におさまっている。店構えも客層も年季の入ったこの店で、ひとり酒杯を傾けている。掃き溜めに鶴。目立たないわけがない。
しかし、新が気になっている理由はそれだけではなかった。
この男、日本語は不自然なほど流暢なのに、銀杏を食べるのがおそろしく下手なのである。
串ものは火を通すのに時間がかかるが、銀杏は煎るだけだから比較的すぐ出せる。どうやら、鳥を焼いているあいだずっと殻と格闘していたようなのだ。
(あったかくてほくほくのうちが美味しいのに)
(ピスタチオとか食べ慣れてそうな顔してるのに)
(ああ、このままだと焼き鳥まで冷めてしまう)
はじめは微笑ましく見守っていたが、ええいヘタクソ、とだんだんイライラしてきた。耐えきれなくて、つい手が伸びる。
「お客さん、いっこいいですか」
ぱっと顔を上げたその人は無防備な顔をしても綺麗で、すこし怯んだがイライラが勝った。殻のついたのをひとつ摘んで、パキッ、ペリッ、と剥いてみせる。
「こう!」
「いまの、いまのもう一回やってください」
すごい食いつきである。いやいやわかるでしょ、と心のなかで舌打ちしながらもう一度やってみせると、きゅっと口をすぼめた彼は準備体操するように二三度指を曲げ伸ばしして、殻をはさむ指に力をこめた。
新はうっと顔をしかめる。
「あー、つぶれちゃったな」
「惜しい!」
ずっと気になっていたのだろう、並びに座ったおっちゃんたちの野次が飛ぶ。向かいの客も腰を浮かせて、やがてようやくきれいに剥けた銀杏にぱらぱらと拍手が起こった。本人も手元のちいさな一粒をしげしげと見つめている。
しかし新は気が気ではなかった。美味いものは美味いうちに。それが新のモットーである。
「お客さん、早く食べたほうがいいですよ」
「ああ、ほんとうだ。ありがとう」
これが二人のファーストコンタクトだった。
「ギャップ萌え?」
「萌えてません」
新よりもひとまわり年上の薫子は、煙草を咥えたままふふんと笑う。
店の二階の、申し訳程度のベランダにスツールをふたつ並べて往来を見下ろす。開店からフルタイムで働く新と仕込みの薫子ではシフトがちょうど入れ違いになることが多く、よくこうやって他愛のない話をする。季節は冬のはじめ、ふたりが羽織っているダウンはいずれも休憩室に置きっぱなしのもので、もはや誰のものかわからないぶんかえって勝手がよかった。
「いいじゃないよ別に、顔はめちゃくちゃ好みなんでしょ。連絡先聞いてあげよっか」
「いいです、そういうんじゃないから」
「かわいくなーい」
たっぷりとうねる髪をおろして片側に流した彼女が気だるく首を仰向けると、とてもこどもが二人いるようには見えない。この店では裏方なので薄化粧にスウェットとデニムだが、このあと家に帰ってこどもたちの食事の面倒を見てから、ばっちり武装して夜の仕事に出るという。女手ひとつで家計を切り盛りする薫子を、新は心から尊敬していた。
「アラタちゃん磨いたら光りそうなのになー。ぜったいモテるって。 ……あれ、いまいくつだっけ?」
「二十七ですけど」
「めっちゃいいときじゃーん、銀杏ボーイ落としにいこうよー」
「勝手にバンド名みたいなあだ名つけないでください、ていうかボーイじゃないし」
「えっ、じゃあなんて呼ぶの、銀杏マン? ださ」
「ふふっ、やめて、今日来たらどうするんですか」
「連絡先を聞きなさい」
ぴしゃりと言い放つその口ぶりに、母親っぽさが顔を出す。薫子は新にとっては母というより歳の離れた姉のような存在だ。言い合って勝てたためしがないので、新は曖昧に笑った。その様子にひとまず気が済んだらしい薫子は組んだ脚をほどくと、ウーンと伸びをしながら立ち上がる。
「じゃ、そろそろ行くわ。報告、たのしみにしてるねー」
「だからあ、聞きませんって!」
ころころと笑いながら外階段を降りていく後ろ姿を見送って、新も時計を確認した。こちらもそろそろ時間だ。部屋に設えられた鏡の前に立ち、身支度を整える。
(磨けば光る、って言われてもね)
人としての自分と、女性としての自分への評価には隔たりがある。二十代も後半になると、そのへんはずいぶん冷静に分析できるようになってきた。
幼い頃からかわいい姉・光と比べられ、女の子らしいものは意識的に遠ざけてきたから、いまさら何をどう磨いたらいいのかわからない。
一度も伸ばしたことのない髪、ゆったりして動きやすいファッション、すこし醒めた話し方。新のキャラクターは消去法でできている。みんな、幼い自分が幼いなりに、姉と違う自分を探って作り上げてきたものだ。その結果、薫子の言う「モテ」の要素ははるか彼方で霞んでいる。
前髪を仕舞ってきりりとバンダナを結ぶと、まるい額があらわになった。かわいいかどうかは別にして、自分のおでこは気に入っている。すこし広くてつるんとしたおでこは、「賢い証拠だ」とよくおじいちゃんが褒めてくれた。てのひらを当てると、ぺちんといい音がする。
「よし」
前掛けをしたら完成だ。
銀杏ボーイが本当に来たらどうしよう。うっかり顔が笑ってしまわないように心構えをしながら、新は今日も店頭に立つ。
その日は突然やってきた。
新が働く居酒屋は、メインのコの字カウンターのほかにテーブル席がいくつか、コの字の閉じているほうに店の入口があり、奥は客用手洗いやバックヤードになっている。そうすると当然、カウンターを出入りする際は手洗いの前を通るわけで、人が溜まっていないか、具合の悪そうな人はいないか、従業員は横目で様子を確認するのが常だった。
テーブル席を片付けようと、新がトレイとふきんを片手にカウンターを出ると、手洗いにつづく暖簾のむこうに、男女ふたりぶんの脚がのぞいている。
(こんなとこでいちゃつくなよな)
内心とはうらはらに、仕事モードの喉からはデフォルトで明るい声が出せる。
「お客さん、大丈夫ですかー?」
呼びかけると、小さいフラットシューズがたたらを踏んだ。先に顔を出したのは男のほうで、その色素の薄さに新の目が驚く。
「あっ」
「どうも」
銀杏ボーイ、と言いそうになるのをすんでのところで飲み込んだ新の前を、女性のあやうい足取りが慌ててすり抜けていく。残された二人でなんとなしに顔を見合わせることになり、頭一つ分高いところから「こんばんは」と朗らかに微笑まれて、新はなんだか毒気を抜かれてしまった。
「……いまの方、お知り合いですか?」
「いいえ」
言い寄られていました、と彼は表情ひとつ変えずに答えた。
「どう対処すべきか、対応を困っていました。ありがとう、たすかります」
「いえ」
どこか引っかかる言葉づかいがいかにも外国人らしい。
そのとき、「はい、ちょっとごめんなさいよー」と通る客があって、新はとっさに男性に身を寄せた。
かるく両手を挙げて避けてくれた彼は、思い出したようにシャツの胸ポケットから紙片を取り出し、再び向かい合ったタイミングで新に差し出す。
「先日はありがとうございました、わたくしアーサー・グレイと申します。どうぞお見知りおきを」
有名企業の名が印字された名刺に、個人のものらしきSNSアカウントが書き添えてある。
「それで、あなたのお名前もうかがってよろしいですか、お嬢さん」
新は差し出された名刺と、こちらを見下ろす顔を交互に見比べた。
(もしかして、もしかしなくてもこれは、ナンパに遭っているのか)
勧誘や詐欺の可能性も拭えないが、ナンパだとしたら生まれて初めてだ。気障な言い方も彼にかかるとなんの違和感もないことに驚きつつ、呆然と名刺を受け取る。
「ご丁寧にどうも……綿貫と申します」
「ワタヌキ、さん」
彼の口からぽつぽつと紡がれると自分の名前じゃないみたいだ。アーサーは続きを待つようにじっとこちらを見つめた。訴えかける視線の圧がすごい。
「あの、下の名前は、新です」
目の前の美貌が途端に花開く。恐るべき破壊力だった。
「アラタさん。うん、そのほうが好きです」
「そうですか」
なにか言わなければという気持ちと、そろそろ仕事に戻らなければという焦りが渋滞して言葉に詰まった。あいにくこちらは名刺など持っていない。みるみるうちにアーサーの眉尻が下がっていく。
「お忙しいところ申し訳ありません。戻りましょう」
「そうですね……」
思ったよりもあっさりした態度に拍子抜けした。初めて遭遇したナンパがこれで終わってしまうのはもったいない、なんて思うのは現金だろうか。
もじもじしていると、うつむいた顔を追うようにしてアーサーが首を傾げる。
互いの息遣いを感じるほどの距離で見つめ合った。薄いブルーに見えた瞳は、影になると紫色を帯びて底が知れなかった。少しほつれた前髪の金、脂で光る唇の艶。
魅入られてしまう。
わずかな間だった。気づいたときには肩に手を添えられ、促すようにすいと押されていた。
目に飛び込んできたのはいつもの光景だ。酔っ払ったお客の笑い声と、ひと昔前のヒット曲がどっと耳に流れ込む。食べ終わって脇によけてある皿やジョッキ、客が帰ったまま片付いていないテーブル、メニューを手にして周囲を見回す頭。ひと目見渡しただけでも仕事が山のように溜まっていた。
「では、ご連絡、お待ちしていますね」
耳元で深く響く声、背筋がぞわりとそそけだち、新は逃げ出すようにホールに出た。トレイを抱え直し、優先順位を組み立てながら、なんとか仕事の調子を取り戻す。
「順番にお伺いします、少々お待ち下さーい!」
声を張り上げて店内の喧騒に飛び込めば、新はいつものとおりでいられる。
それでも、首のあたりの淡い余韻だけは、なかなか振り払えなかった。
もらった名刺をうっかり洗濯機で回してしまって、木っ端微塵のなれのはてを発見した新は真っ青になった。本人の来店もないまま一週間、さすがに申し訳なくて、もうずっと気を揉み続けている。
とうとう我慢しきれなくなって、身支度もすんで帰るばかりだった薫子に相談したところ、彼女は案の定、「うそでしょー?」と悲鳴を上げた。
「もったいなーい、せっかく私が……あっ」
急に言葉を詰まらせた薫子に嫌な予感がして問いただすと、どうやらアーサーに入れ知恵をしたのは彼女だったらしい。どっと気が抜けて椅子に沈んだ新は、「ごめんね、よかれと思ってー」と慌てる薫子を虚ろに見上げた。ずっと悩んでいた自分がばかばかしくて、文句を言う気も起きない。
ほら、自分がだれかに一目惚れされるなんて、万に一つもなかったのだ。
(そりゃ、お姉ちゃんじゃないし)
わかってはいたけど舞い上がっていた自分と、急にすべてがどうでもよくなってしまった自分との落差にちいさく絶望する。
――名刺を受け取ったあの晩、おくれて恐慌に陥った新は、帰宅したのちとりあえず持ち服を並べ、あまりの可愛げのなさにがっくりと膝を折った。以前ふろく目当てで買ったファッション誌に手を伸ばし、縋るようにページを繰っていくと後ろのほうに〈聞きたい? 聞けない! 男のホンネ〉なる特集を見つけてしまって読み耽ること数時間。そもそも帰宅時間が遅かったものだから、気がつくころには白々と夜が明けていた。
振り返るとひどく滑稽である。力なく笑う新に、薫子はかさねて「ごめん、余計なお世話だったね」とさらに姿勢を低くする。
「いいですよ、ちょっとびっくりしただけで……ほら、はやく帰らなきゃ、タキくんとレンくん、待ってますよ」
息子ふたりの名前を出すと、彼女は渋々といった様子で立ち上がった。
「でも、いっぺん会っただけだけど、アラタちゃんにお似合いだと思うよお、彼」
「もういいです……」
「ちがうちがう、あたし、人を見る目はあるの」
あ、でも男見る目はないわ、説得力なーい、と自分でツッコむ薫子の言葉に気遣いがにじむ。
「フツー、銀杏の食べ方教わったくらいであんなに喜ぶか? って」
「え?」
新が目を瞬くと、薫子はうっとりと続けた。
「私に話したときの顔、見せてあげたかったわよ。あの見た目でカワイイこと言うんだもん、私がもうちょっと若かったら」
「いやいやいや」
「なによお」
あはは、と声を揃えて笑う。
「あたしさあ、アラタには幸せになってほしいとおもってんの。あ、男がどうとかじゃなくてね」
彼女が「アラタちゃん」と呼ばないときは、たいてい真面目な話をするときだ。新は斜めに傾いでいた身体を立て直して背筋を伸ばした。
「男でも女でも、ほんとにちょっとしたことを喜んでくれたり、褒めてくれたりする人って必要だと思うのよ。私なんかいっつもタキがいいこいいこしてくれるの。あの子、将来有望だわ」
レンは自分が甘えたいばっかりでまだダメね、と言いながらも彼女は嬉しそうに笑う。
「それは、味方をつくれってことですか」
「味方……味方ね、うーん、相変わらず色気のない言い方をするわね、間違っちゃいないけど」
なんだろなあ、ぐるりと首を巡らせる。
「この人さえいてくれたら無敵、他のひとに何言われたって怖くない、って思える相手かなあ。……そういう人、いる?」
新はすこし考えてから答えた。
「……おじいちゃんかな?」
「うーん!おじいちゃんかあー!」
別にわるかないけどー、と薫子は天を仰ぐ。
「おじいちゃん以外に、何でもウンウンって聞いてくれる人がいると、あんたみたいな子にはいいと思うんだけど」
「そう言われても……ハッ」
新は気づいた。心当たりがもうひとりいる。
「それって、薫子さんのことじゃ……!」
「やめてー、気持ちはうれしいけどそうじゃないのよやめてー」
薫子は笑いながらもとうとう頭を抱えてしまい、新も弱ってしまった。
家族や友人には恵まれてると思うし、職場でも認められている。特にこれ以上のぞむものもなかったので、言っている意味がよくわからない。
「うーん、やっぱり男だな、あたしとかおじいちゃんじゃなくて。そういやアラタ、女の子あつかいされるとすーぐキョドるでしょ。女子ってことじたいにコンプレックスがあるとみた」
お姉さんは、なんでもお見通しだ。
「そういうのって、女同士じゃどうにもならないのよね。傷の舐め合いになるから。変な意味じゃなくて、男に大事にされる経験って必要よ」
「そういうもんですか」
「そういうもんよ」
だけどアラタちゃん、いい人できたらあたしにも紹介してよね、と付け加えるあたりが抜け目ない。あえてそうやって茶化してみせるのが薫子の優しさだとわかっているから、新も「うん、そのときは」と笑顔でうなずいた。
先に帰ったはずの薫子が息を切らして戻ってきたのは、それから十五分後のことだった。
「アラタ、ちょっとアラター!」
「え、は、なに?」
「あれ、どうしたのよカオちゃん」
時刻は午後五時、開店直後の店には常連が二人だけ。そこへただならぬ様子の薫子が駆け込んできたものだから、大将も目を丸くしている。ほどなくして、彼女の背後から金色の頭がヒョイと顔を出した。
「こんばんは」
「オウ、いらっしゃい」
にこやかに声をかける大将とは対照的に、新の表情は「げ」のまま固まった。一週間放置した手前、どのツラ下げて接すればいいというのか。
「帰る途中で会ったのよ。大丈夫よアラタ、事情は私が説明しといたから」
「そうです、大丈夫です」
「え、ええー」
なにが大丈夫なのかさっぱりわからない。間抜けな声だけがあてどなく漂う。
「じゃ、あたし、帰るから!」
「ええー!」
新の抗議に「ガンバ!」と満面の笑みだけ向けて、薫子は風のようにいなくなってしまった。代わりにアーサーがにこにこしながら入ってきて、新の目の前に座る。
「あ、あの……」
「事情はうかがいました。誤解があったようですが、声をかけたのは、カオルコに頼まれたからではないですよ」
怪しげな勧誘でもありません、とあっさり先手をとられ、発言のきっかけを封じられた新は口をぱくぱくさせるほかない。
「僕が、あなたと仲良くなりたいと思ったのです」
アーサーは組んだ指の上でにっこりと微笑んだ。
(ひー!)
交際経験は数えるほど、いずれも友達付き合いの延長だった新には未知の展開すぎた。こんなの、ドラマとかマンガの世界だ。とても手に負える気がしない。
「た、大将〜」
「俺ァ忙しいんだ、しばらくお相手しといてくれ」
客数三名で忙しいわけがない。やおら焼き台の炭をガシャガシャやりはじめたゴマ塩頭をひと睨みして、新はとうとう観念した。
「……とりあえず、ご注文は」
「あなたの好きなものを」
出た、めんどくさいやつ、と内心で呻きつつ伝票を表に返す。
「じゃあ……」
このさい売上に貢献してもらおうと、新は思いつくままに注文を入れた。お通しのあとに、わかめの酢の物、自家製厚揚げに茄子の煮浸し、串盛り、じゃがバタ塩辛、砂肝の唐揚げ、箸休めに浅漬きゅうり、モツ煮込み。そのうちに狭い店内はほぼ満席となり、大学生のアルバイトも二人入った。さすがにアーサーばかりを構うわけにはいかなくなったが、毎回、次の料理を出しに行くころにはおよそ皿が空いていた。
かなりの量を出したはずなのに、彼はぺろりと平らげていく。この食べっぷり、見ていて悪い気はしない。注文が一旦落ち着いて、新がジョッキの氷水を呷っていると、アーサーも箸を止めて話しかけてきた。
「忙しそうですね」
「まあ、いつもこんなもんです」
「美味しくて、かんじもいい。いい店です」
「ありがとうございます」
この外国人、お世辞も一丁前だ。
「あなたと分け合えたら、なおよかったのですが」
「はあ」
何を言っているんだ、と思いながら生返事をする。さっきからずっとこの調子なので、新もだいぶ慣れてきていた。ところが、この程度ですむアーサーではなかった。
「なのでアラタさん、よかったら今度ふたりで食事に行きませんか」
常連のおっちゃんたちが一斉に振り向く気配がして、新は手元の角皿を取り落とした。パーンと派手な音がして、反射的に「失礼しました!」と声が出る。あわてて振り返った先の大将は新しいおもちゃを見つけた子供のような顔をしており、新は退路を断たれたことを知った。
「アラタちゃん、いま割ったの、悪いと思うなら、そのデート行ってきなね」
「うっ」
やはり聞いていたのか。
アーサーの目が輝く。
「では、アラタの次のお休みはいつですか」
「ええと、ちょっと待ってな」
「えええ」
大将が壁にかけてある出勤表を確認し、新の同意も得ずに食事の日取りが決まってしまった。
アーサーの周りはいつの間にか常連で固められて宴会状態、勧められるまますいすいとグラスを空ける彼に気を良くしたおっちゃんたちは、「合格!」とやたらに盛り上がる。
「第一関門突破おめでとう!」
「酒飲めるやつに悪いやつはいない」
「アラタちゃんを頼むよ」
誰も彼もが父親気取りである。いや、父親ならこんなに無責任に娘を売り渡したりしないだろう、と郷里の父を想う。「酒ばっかり飲むんじゃタダのろくでなし」となけなしの抵抗を示したものの、新の言うことなど誰も聞いちゃいない。
次の店休日の予定が埋まってしまったので、新は仕方なく、たまった洗濯物はいつ回そうかな、とぼんやり考えた。
はじめは仕方なく付き合った食事だったが、これがおもいのほか面白いことになった。
食事にしろデートにしろ、「面白い」とはこれいかに、というかんじだが事実なのだ。アーサー・グレイは、その美貌に似合わずおかしな男だったのである。
「え、ここは一体……」
「割烹です!」
アーサーははりきって両手を広げた。見ればわかる。
ほどよく落ち着いた印象の門構え、アプローチには飛び石、灯籠と鹿威し。初めて女性を食事に誘うのに、これほど敷居の高そうな店に連れてくる男がどれだけいるだろうか。念のため手持ちでは唯一といっていいワンピースを着てきたが、これでよかったのかとびくびくしながらエスコートに応じる。
ところが。
「アラタさん、見てください、舟盛りですよ!」
通されたのはカウンター席。料理人の手元をみながら感心しどおしのアーサーのテンションは、舟盛りの登場でピークに達した。
格好をつけようとかそういう気は微塵もないらしい。新のことなどそっちのけのありさまで、間が持たなかったらどうしようかと悩んでいたのが早々にアホらしくなってきた。間が持たないどころか、次々出される料理に話題が渋滞しつつある。
「なぜ舟に魚をのせようと考えたのでしょうね。おかしいと思いませんか?」
子供のようなことを言うので、カウンターのむこうで板前が苦笑している。
「釣った魚だったら、舟にのっててもおかしくないんじゃないですかね……?」
「そうか、そうかもしれません」
真剣な顔で悩みながらも次々と箸を運ぶ。本当によく食べるし、些細なことでもいちいち驚いて、食べることそのものを心底たのしんでいるようだった。
アーサーのテンションに引きずられて、新もついつい笑ってしまう。何を隠そう、新はご飯を美味しそうに食べる人にはとても弱いのだった。
――別の日には。
「それはなんですか?」
「タピオカドリンクですよ、知りません?」
「タピオカ……」
「飲んでみます?え、あ、ちょ、私のじゃなくて、自分で買ってください!」
新の指示に従ったアーサーは、早速いそいそと買って戻って、ちゅううと吸い始める。
「出てこない……」
「だってそこタピオカいないじゃないですか、こっちですよ」
新が指し示したあたりにストローを挿して再チャレンジしたとたん、ふごっと妙な音がした。
「ああ、のど直撃、やりますよね」と、ゲホゴホむせる背中をさすりながら大笑いしたりとか。
――また別の日には。
「アーサーさん、さっき何度もビクッとしてましたね」
「平面情報にこれほど翻弄されるとは……やりますね……」
「いや映画を平面って。たしかにそうですけど」
どうも的外れな感想に呆れたりだとか。
気づけばなにかしら理由をつけて週一回ペースで会うようになって、そのたびアーサーが新しい顔を見せるので、新はすっかり参ってしまった。
(なんなのこの人。面白すぎる)
「アラタの例えはいつも独創的で、面白いですね」
「アーサーにだけは言われたくない」
遠慮なく言い合うようになった頃には、もうとっくに恋に落ちていた。
『あーちゃん、カレシできたんでしょ。お母さんから聞いたよ』
姉の光から電話がかかってきたのは、街中がきらめく十二月なかばのことだった。新は姪にあてて少し早めにクリスマスプレゼントを送っていて、そのお礼という体を装った電話だったが、本題は明らかにこっちだ。
『クリスマスはどうするの?一緒に過ごすんでしょ』
「いやー……」
母の「いい歳して独りでふらふらして云々」に買い言葉でアーサーの存在を喋ってしまったのが間違いだった。忘年会シーズンで店は連日大盛況、今日も昼をすぎてやっと起きたところである。クリスマスどころではない。
『で、どこまでいったの、チューはした?』
可愛い顔して発言が下世話だ。大学のミスにも選ばれて引く手あまただった姉は、さっさと結婚して子どもは幼稚園、日頃から浮いた話に飢えている。無下にするとかえって面倒なので、スマホをスピーカホンにしてベッドに放った。
「そういうのはあんまり……」
『ええー!別に最近付き合い始めたってわけでもないんでしょう?いつから?』
「そんなことまできくの……二ヶ月くらい?」
『二ヶ月付き合ってチューもなし……中学生?』
「うるさいな」
アーサーとはそういうんじゃない、と思いながらも、言われてみると、じゃあ何、と思わないでもない。
『外国の人なんでしょう、いつかは国に帰るのかな?』
「知らない、そういう話しないし」
『しないの? 将来どうする、とかそういう話も?」
家族ってどうしてこうも無遠慮に核心を突いてくるのだろう。この文脈で、〈将来〉という言葉に〈結婚〉の意味が託されているのはほぼ間違いない。新は少々イラッとした。
「お姉ちゃんさ、自分がひととおりクリアしてるからってそういうこと言う?」
『ああ、ごめんね。でもある程度歳いってからの恋愛って、将来とか家族とかと切り離せないじゃない? あーちゃんもまったくその気がないわけじゃないんでしょ』
ああ、これは母に何か言い含められたに違いない。
『それに、あんまり深い話をしない男って、いい話聞かないし。お姉ちゃんの友達も、それで結局不倫にはまっちゃった子いたし』
「お姉ちゃん」
『あーごめん、あーちゃんが今付き合ってる人がそうだって言いたいんじゃないんだけど。でも一度はっきりさせといたほうがいいんじゃないかなって。急げばいいってもんでもないけど、なんていうか、ゆっくり関係を育てていきたいだけなのか、ずっといい遊び相手のままでいたいのか』
母にも同じようなことを言われたが、姉の言い方のほうが格段に巧妙でリアルだ。新はとうとう反発できずに黙り込んでしまった。とりあえず着替えようと押入れを開けると、慌てたような声が追いかけてくる。
『あのさ、誤解しないでほしいんだけど、あーちゃんが楽しく恋愛してるなら、お姉ちゃんも嬉しいんだよ。そういう話、姉妹であんまりしてこなかったじゃない。だからつい、いろいろ訊きたくなっちゃって。ごめんね、お母さんみたいだったでしょ』
「……ほんとだよ、そっくりすぎてキレそうになった」
うふふ、長女だからね、と姉は気にしたふうもなく笑う。
『でもね、そういう話もしてみたほうがいいよ。それを面倒くさがるような相手なら結局それまでだって、お姉ちゃんは思う』
アーサー宅へ料理を作りに行くことになったのは、クリスマスもとうに過ぎた、年末のことだった。
「アーサーは、家では何を食べるの?」
「家で、ですか?主にパンやクッキーなどを……」
「それだけ? ご飯は?」
「朝食以外はすべて外食ですね。朝食を外で食べることもあります」
衝撃だった。
新にとっては、食べたいものは自分で作るのが当たり前。理由は単純で、量も味付けも好きに変えられるからである。仕事中は賄いを食べるし、人と会うときはもちろん外食になるが、自宅にいるなら必ず自炊する。郷里からは定期的に救援物資が届くので、薄給の身でも食料難に陥ることはまずない。
アーサーもよく食べるが新もかなりの大食いなので、このところのデートでは食事代がばかにならない。貧乏性も手伝って、つい「外で食べるなら普段食べられないものを」と奮発するからなお良くない。アーサーが大目に出してくれるものの、新は初回の割烹をのぞいて食事代は折半だと譲らず、その頑固さが自らの首をじわじわと締めつつあった。
外に出かけないで家で過ごすのも、新鮮でいいかもしれない。正直たすかる。そう思って、新はあまり深く考えずに提案したのである。
「アラタが食事をつくってくれるんですか!」
アーサーがあまりに喜ぶので、店で出してるものも半分は新が作ってると言うと、「それは別腹です」と微妙に意味のずれた返答をした。
そうと決まってからふと、姉の光との会話がよみがえった。
家でなら、時間を気にせずに話ができる。時間をおいてみてようやく、姉の言うことももっともだと思えて、この機会にアーサーとの関係を確認することに決めた。
アーサーが最低限のものしか置いてないというので、当日、新は事前にある程度の仕込みと道具をアーサー宅に持ち込んだ。
「なんだ、全部揃ってるじゃない」
台所の戸棚と引き出しをすべて確認して愕然とする。
「私のこの、重い荷物!」
「アラタが来るから、通販で揃えました」
「そういうことは先に言う!」
「すみません」
それ以外は概ね問題もなく、買い出しに行くときもアーサーは甲斐甲斐しく荷物をもってくれたし、邪魔だったので追い出したものの、積極的に調理にかかわりたがった。飾り気のない料理を喜んで食べるアーサーの美味しそうな顔はまた格別で、新は食後のお茶を用意しながらずっとにこにこしている。
しかしまだ、大事なことが残っていた。
ソファに座ってまったりとお茶をすするアーサーに、意を決して話しかける。
「ところでアーサー」
「はい?」
「私達、これからどうしましょうか」
「どう、というと」
新は覚悟を決めた。
「付き合っているのにキスもセックスもしてなくて、これって大丈夫かな、と思って」
アーサーは口を真横に結んで固まる。
「……単刀直入ですね」
「まあね」
新はそれ以上言わない。ただ、アーサーの反応を待った。
「僕は、このままでいいですよ」
「もう少し進んでもいいと思うんだけど」
「無理する必要はないと思います」
「無理はしてない」
「やめましょう、アラタ、あせるのはよくない。喧嘩になります」
アーサーが止めるのを、新は振り切った。
「キスしたり、触れ合ったり、恋人らしいことをしたいって、アーサーは思わない?」
新はアーサーの手をとって自分の太ももにのせた。もう後には引けない。
「私とこれからどうなりたいのか、今の気持ちを教えてほしい」
「今のきもち」
「そう」
珍しく当惑した様子のアーサーは、言葉を探すように目を泳がせる。新はさらに辛抱強く待った。
少しして、アーサーは困り果てた末に、ぽつりと呟いた。
「わかりません」
「えっ、どういうこと」
耳を疑った。
いけないと思いながらも、どうしても詰るような口調になってしまう。
「いまのままで充実していますし、この上アラタに触りたい、という欲求は、僕にはわからない……」
新は息を呑んだ。心臓が嫌な音を立てる。それでも逃げずに問い直した。
「深い関係になるつもりはない、ということね」
「そうかもしれません」
「なるほど」
自分が恋した男が、目の前で心底から困惑している。すこしかわいそうになったが、もっと惨めなのは自分だ。新は一度吸い込んだ息を、ただ力なく吐き出した。
(そうだったのね)
急に身体が重たくなった気がする。自然に垂れた頭を、大好きな顔が覗き込んでくる気配がして、逃げるように立ち上がった。
「帰るね」
「えっ」
「帰る」
持参した大きなトートバッグの一番底には、替えの下着をこっそり忍ばせてあった。そんなものを無防備にほうっていた自分の能天気さに心底ぞっとして、手に取るついでに口をわしづかみにする。
デコルテのあいたハイゲージのニットはやっぱり寒かったし、キルトスカートに合わせたタイツだってお尻周りがもたついてずっと気持ち悪かった。そういうのをぜんぶ着慣れたダッフルコートで覆ってしまって、自分のために自分をよそおう。
あとはここから出ていくだけ。
……そう思っていそいで玄関まできたのに。
(うう、ごはん)
なぜこんなときまで気になってしまうのか。
おろおろと玄関まで追いかけてきた長身をそっと押しのけて、すべる足先で台所にもどる。
鍋に残った豚汁、キッチンペーパーの上のささみチーズカツ、つい切りすぎてしまったキャベツの千切りに、自宅で仕込んできた栗ご飯。われながら手が込んでいて、そして全部おいしかった。すべて包んで蓋をしていく。そのまま置いていくのもかわいそうだから、あとでちゃんと食べてもらえるように。
改めて並べてみると、なんだか茶色い。地味で素朴で、特別じゃないものたち。これが新の精一杯だった。でも、仕方ない。
すべて冷蔵庫に入れ終わって振り返る。こちらの顔色を一心に伺いながら立ち尽くしている彼がやっぱり愛おしく思えて、つい口元が緩んでしまった。そんな自分が滑稽でかなしい。
「アラタ」
途方に暮れた子供のような声。どんなに心が揺れても、母親になる気はない。
「帰りたいの」
なぜ、と顔に書いてあるのはわかっていたけど、答えるだけのゆとりもなかった。
時刻は夜十時をまわっていた。
閑静な住宅街を抜けて早足で駅に向かう新を、いくらか重い足音が追いかけてくる。来ないで、と思う反面、追いかけてはくれるのか、思うと嬉しくてくやしい。振り返るまい、とさらに足取りを早める。軽くなったトートの持ち手がいちいち肩からはずれて鬱陶しかった。
歩いているうちにだんだん頭が冷えてきて、身体はぽかぽかしてきて、ものを考える気が湧いてくる。
(もしかして言い過ぎた、っていうより言わなすぎ?)
アーサーのことだ、悪気はなかったのかもしれない。急に態度が変わって、彼からすればわけがわからなかったかもしれない。ソノ気はなくても好きだとは言ってくれているのだ。あの別れ方はひどかったかもしれない。
次々浮かぶ可能性と罪悪感で、歩みが鈍る。
道はいつの間にか人気のないところに差し掛かっていた。ほどよい運動で働きはじめた頭は、あることに気づく。
この足音はおかしい。
時折足先を引きずるような音、姿勢のいいアーサーならこんな音はしない。
追ってくるのが長すぎる、アーサーが本気を出したら新などとっくに捕まっているはず。なにしろコンパスが違う。
それに、いままで一度も名前を呼ばれていない。
ぞっとして駆け出した。スニーカーの中でタイツの足がすべり、スカートがまとわりつく。コートのボタンを全部留めていたのも仇になった。荒い息が背後に迫る。
「アラタ!」
耳に馴染んだ声が叫び、新は反射的に振り返った。すぐ背後に迫っていた男も振り返ったため顔が見えないことに少しほっとして、その向こうのアーサーと目があった。
(裸足?)
「走って!」
言われるままに前を向いて走りつづける。すでに肺が痛い、顔に当たる風は冷たいのに、脇のあたりは燃えるように熱い。背後で「あああああ」と奇声がして、次いでずざざと地面の擦れる音。
「アラタ、もういいですよ」といくらか落ち着いたアーサーの声で、新はようやく足を止めることができた。
男は網のようなものに絡め取られて、意味のない喚き声を撒き散らしている。通行人が遠巻きにするなか、新もとにかく気持ち悪くて、大回りをしてアーサーのもとへ向かう。
「ありがとう、あの……さっきは」
「新は走るのが速いですね、裸足で追いつくのは骨が折れました」
アーサーは最後まで聞かずに、片腕で新の身体を抱え込んだ。そのまま黙って見下ろされて、なすすべなく見返すなり、新の血の気がザッと引く。
「アーサー、腕が」
「ああ、問題ありません」
左袖がだらりと下がって風に揺れている。肩から先がなくなっているのだ。
「問題ないって、どういう」
「すこし、ここにいてください」
そう言って地面に転がった男に近づくと、アーサーは跪いて網に手をかけた。結ぶような手の動きとともに網はしゅるしゅると形を変えて、ひとつにまとまっていく。遠くから見ればただ不審者の手足を縛っているように見えるかも知れないが、新の目に映るのはまったく別の事実だ。無事だった方の右手とともに、完全に独立した状態の左手が器用に男の手足を拘束し直し、しれっと袖のなかにおさまっていく。
一連の出来事を、新は唖然として見守るほかなかった。
やがて駆けつけた警察に事情を説明し、もう遅いからと帰宅を促され、男が連行されていくのを見送る。野次馬も解散して、やがて二人だけが残された。
「アーサー」
「はい」
「靴はどうしたの」
「忘れました」
「足、大丈夫」
「問題ありません」
アーサーの答えは淀みない。
「さっきの、なに」
彼は少しの間、口角だけ上げてこちらを見つめた。その表情はまるで読めない。
「……説明します。戻りましょう」
新は素直に従った。覚悟はとうに決まっている。今日ははじめから、そのつもりで来たのだ。
部屋に戻ると、まずアーサーは電子レンジでホットミルクをつくり、「これは、僕が作れる数少ない料理のひとつです」と言いながら新に手渡した。
「料理ではないでしょ」
「そうですね、冗談です」
二人がけのソファの隣に腰を下ろして静かに笑うアーサーに、新はミルクの表面に張った膜をぺろりと飲み込んでから訊いた。
「腕、ほんとうに大丈夫なの」
「大丈夫ですよ、でもほら」
マグカップを置いて両腕を前にのばす。
「左だけ、すこし短くなってしまいました」
たしかに、左手の指先が右手の第二関節あたりまでしか届いていない。
「なんだったの」
「僕の身体の一部を切り離して、網の代わりにしました」
「便利だね」
「今回は役に立ちましたね。短くなったぶんは、あの男の四肢を拘束するのに残しました」
淡々としたやり取りが続く。不意に、アーサーがぽつりと呟いた。
「間に合ってよかった」
あえて視線をはずしたその一言に、新の胸はぎゅっと絞られた。今しかない。
「アーサー、怒らないから言って。あなた何者なの」
「何者、といってもいろいろありますが」
「わかりやすく言って」
アーサーってこういうとこある。少しイラッとしたが、怒らないと言った手前我慢する。ひと呼吸おいて、アーサーが答えた。
「イセイジンです」
「なんて?」
耳慣れなくて、うまく意味がとれない。
「異星人です。他の星からきました」
「なにそれ」
思った以上に大きい声が出てから、もう夜遅いことに思い当たってぐっと口を噤む。にわかには信じがたくて、質問を続けた。
「どこからきたの」
「もとは遠い遠い星から。地球に来る前の話でいうと、火星ですね」
「なんできたの」
「僕らはそういう性質なのです。強いて言えば、宇宙にひろく拡散するのが目的というか」
「地球を侵略するの」
「なにをもって侵略とするかによりますね。行き先で暮らしながら個体数を増やす、というのが侵略というなら、そうかもしれません」
「特に攻撃したりはしないのね」
「自分の新居を壊す人はいないでしょう」
妙にうまい例えをする、と感心してから、新は気づいた。自分の言い方そっくりだ。
「アーサー、あなた、私からいろいろ盗んでるでしょう」
アーサーはなぜか嬉しそうにする。
「ぼくらはオンラインのデータにはアクセスできますが、ローカルな個体はそういうわけにはいきません。ナチュラルな振る舞いはずいぶん学ばせてもらいました」
「……そう」
まさか人間代表が自分でよかったのか、と思わないでもないが、これでアーサーの言動のアンバランスさに得心がいった。どこかアンドロイドじみているように思ったのは、あながち間違いじゃなかったのだ。
「オンラインのデータにはアクセスできるって、ネットで検索するのと同じかんじ?」
「実際にはより高度な情報処理が可能ですが……認識としては間違っていません」
「ふうん……じゃあ、戸籍とかはどうなってるの」
「捏造しました。これくらいは造作もないことです」
なんの気負いもなく言われると、さすがに薄ら寒い気分になってくる。
「他の人には、そういう言い方しないほうがいいと思うよ……」
「特に予定はないので、問題ありません。でも、気をつけます」
「そうして」
アーサーのあっけらかんとした様子に、新はだんだん疲れてきた。そろそろ日付も変わろうとしている。
「腕なくなっても平気だったのはなんで?」
「この身体はこまかい生体ユニットの集合ですから、ばらばらになったところで問題はありません。もともと、僕らはユニットごとに独立した生命活動が可能です。人間らしい身体に見せるために、いまは機能分化していますが」
「変形も自在」
「そのとおり」
「便利だね……」
「そうでしょうか」
アーサーは、ここで初めて異論をはさんだ。
「私達には、本来個体という概念はありません。行く先々で適応できるよう、極めてニュートラルな状態で星を渡る。そこには個別の意志はありません。ただ種としての本能にしたがうのみ。美味しいとか、楽しいとか、そうした情動も一切ない。タンポポの綿毛のようなものです」
そう言いながら、実に人間らしい、寂しそうな顔をした。
「なんにでもなれるということは、何者でもないということです。新と共にいると、その言葉の意味がよくわかる。あなたはいつも、食べ物を美味しそうに食べますね。美味しく食べるための工夫も惜しまない。人として生きることへの愛情が深いのでしょう。僕にとっては新のそういうところが眩しく、心の底から好きなのです」
穏やかな話しぶりとはうらはらに情熱的な告白を受けて、新は思いがけず赤面した。アーサーが楽しそうに食べるのが、自分の写し鏡だったとは。彼はそんな新に微笑んで、なおも続ける。
「僕がこの星にやってきてから三年近くが経ちますが、僕の心はあなたと過ごしたこの二ヶ月余りで急速に成長しました。それまでの僕の対話スタイルは、膨大なデータの海から人間の行動パターンを拾って反応するだけだったのです、それで社会生活に支障はありませんでしたので。社会的記号としてのアーサー・グレイは存在していましたが、個人を名乗るには足りなかった。しかし」
紫をまとった青い瞳が、新を映してきらめきを帯びる。
「新に認められたくて、僕は僕という存在を固定しました。姿かたちを定め、交わした言葉や共有した体験を、現在この身体を構築しているユニット群の記憶として蓄積することにした。あなたとの日々は、そうして留めおきたいと思ったのです」
新はあっけにとられてしまって、一言返すのが精一杯だった。
「なんだか、よくしゃべるね」
「ずっと胸のうちに秘めていた想いを、ようやく伝えられる機会ですからね」
ホットミルクはすっかりぬるくなっており、アーサーは新の手からマグカップをそっと抜き取って、ローテーブルに置いた。
「ずっと、黙っていて申し訳ありませんでした」
「いいよ。結局、話してくれたじゃない」
はなから、怒る気はないと言っている。自由になった右手で、すこし短くなったアーサーの左腕に触れる。もう一方のてのひらで、アーサーの頬を撫でた。
「本当に、よくできてるね」
「つくりものでは、いけませんか」
「そういうことじゃなくて」
すこし不安そうに揺れる瞳。新に歩みよるために、短い期間で人間らしさを獲得した、そのいじらしさを想う。ふと、薫子の言葉がよみがえった。
(このひとがいてくれたら無敵っていう相手)
人かどうかはさておき、ともに生きていくのに、これ以上の相手はいない気がした。
「あっ、そういえば」
アーサーが弾かれるように顔を上げたので、新は目をぱちくりさせた。
「なに」
「誤解があるようですので、これは伝えておかねばなりません」
「なによ」
「僕が新を性的対象として見られないのは、新に魅力がないからではありません」
「待て待て待て」
急な話題の転換に、疲れもあいまって新は頭痛がしてきた。
「待ちません、これは大事なことです。僕らには性別がありません。本来、生殖に必要ないからです。故に、性的な行動に結びつくトリガーそのものが備わっていません」
だから新は何も悪くありません、僕の問題です、とアーサーは必死に言い募る。
「まあ、違う生き物だもんね……これもいわゆる性の不一致ってやつかしらね」
それについてはおいおい……と話を終わらせようとしたが、まだ続きがあった。
「それについてですが、さきほどのやりとりで、新にも性的な欲求があるということが僕にもわかりました。これには改善の余地があります。新の期待には、できるだけ応えたい」
「……ちょっと待って、それじゃ私が欲求不満みたいじゃないの」
「違うのですか?」
「……違いません」
なんだかおかしなことになってきた。
「安心してください、身体のつくりは完璧にコピーしてありますから、ひととおりの機能は備わってます。よかったらお見せしましょうか」
「えっ、ちょっ、わーっ、見せなくていい!」
大真面目にズボンをおろそうとするアーサーを押しとどめながら、新は思わぬ茨の道に足を踏み入れてしまったような気がしていた。
結局、新はそのままアーサー宅に泊めてもらい、同じベッドで眠った。何をするでもなくただアーサーの大きな手に手を重ねて、布団がほどよく温もってきたところでスコンと寝落ちした。
それから、二人の保健体育の授業が始まった。
新の仕事は基本的に夕方から、早くても午後からなので、休みが合わなくても時間をつくるのは難しくない。目的が目的なので外出する機会はぐんと減り、代わりに新がアーサーの家に泊まることが増えた。
「さて、どうしようか?」
アーサーの背後には人類が積み重ねてきた膨大な量のデータがある、そのうちのいくらかは男女の営みにも割かれているはずだ。さぞかしアーサーの知識は豊富なことだろう。
新が半ば怯え、半ば期待をこめて投げかけた問いには、意外な答えが返ってきた。
「基本的な知識はありますが、具体的な行為の手順については資料不足で」
「そんなの、映像資料がいくらでもあるでしょうに」
若干の皮肉をまぜて言い返すと、アーサーは拗ねたように言い訳する。
「だって、年齢制限のあるものばかりではないですか。僕は人間として暮らして三年なので、閲覧できません」
「真面目か!」
思わず突っ込んでしまってから、新ははたと思い当たった。
(ということは、アーサーは童貞)
当たり前だが、嫌なことに気づいてしまった。
「新はひととおり経験があるのでは?」
「私だってリードできるほど詳しくないよ……」
教師不在。これは前途多難である。新は深い溜め息をついた。
「わかった、わかりました。映像資料については私が許可します。っていうか、見た目年齢三十代で自称三歳とか、マニアックすぎるからやめて……」
「そういうプレイもあるとのことですが」
「その情報、どっから仕入れた!」
どうもおかしな方向に知識が偏っている。まっとうな人間男子としての成長過程をすっ飛ばしているわけだから無理もない。医学的知識や倫理観については全年齢向けのデータベースを信じるとして、問題は実技ということになる。
(実技とは……)
新の視線は宙をさまよった。
心配したアーサーが身体を寄せてこちらを覗き込む。その体温がひりりと肌を撫でて、新の身体の芯が疼いた。
この大きな身体に力いっぱい抱きしめられたら、どんなに心地良いだろう。強い衝動がこみ上げてきて、ああ、これが私の性欲か、と思い至る。
間近に迫ったアーサーの胴に腕をまわし、そっとしがみつく。
「これは……もうはじまってますか?」
「うん、はじまってる」
「僕は、どうしたらいいですか」
「私と同じようにして」
アーサーの腕が新の肩から背中にまわる。新がきゅっと力をこめると、アーサーも同じように返した。身体の間のわずかなすきまに、二人の熱が溜まる。
「アーサー、前から思ってたけど、おひさまみたいなにおいするよね」
「それは一体……なにかの例えですか」
「干したばっかりの布団とか、外で遊んできた子どもとか、日にあたったかんじのにおい」
「なるほど。僕は三歳ですからね」
あきらかに根に持っている様子の冗談に、新はくっくっと笑う。くぐもった自分の声が、おでこのあたりで脈打つ心音と共鳴して、なんだかとても温かい。ぐりぐりと頭を押し付けると、アーサーも楽しそうに笑った。
「新は、おいしそうなにおいがしますね」
「そりゃ、料理したあとだもん」
「そうですね、今日の食事もおいしかった」
「それはよかった」
私のことも食べてくれていいのに、と口をついて出そうになったが、通じなかったらいたたまれないので心にしまう。
それからなんとなく話すのをやめて、しばらくそのままじっとしていた。こうして、二人で言葉と体温を交わしながら、互いの愛し方を探していくんだな、と新はしみじみと実感した。
とはいえ、ハートフルな触れ合いの先には当然セックスが存在しているわけで、これに関しては二人とも知識というより引き出しが圧倒的に足りなかった。四十八手とかそういう次元ではない。
新とて経験は数えるほどで、振り返ってみても何が起きていたのかいまだによくわかっていないのだから、そもそもがその場限りの化学反応のようなものかもしれず、そう考えると、セックスもつくづくコミュニケーションであり、一朝一夕で身につくものではない、というようなことを二人で話した。
手っ取り早い手本はアダルトビデオだろう、と結論して、アーサーは新の監督下でいくつかのタイトルをダウンロードした。一度は各自自習でもかまわないか、と考えたのだが、アーサーには「プレイ」などと口走った前科がある。アブノーマルな方向に走られても困るので、新はできるだけ穏便なタイトルのものを探し、その過程で女性向けもたくさんあることを知った。
「新はこういうシチュエーションが好きですか」
「えっ、学校? いや、さすがに公共の場ではちょっと……」
「では、これを選んだ理由は?」
「それ聞くの、えー、と」
アーサーの質問は容赦ない。もはやこれが一種のプレイな気がしてくるが、本人にその認識は一切ないので正面から答える。
「できるだけ自分に近い、不慣れなかんじのがよかったから……」
「なるほど」
不慣れもなにも、俳優はプロなのだからそんなわけはないのだが、そのときはウブで手探りな様子がいかにも真に迫っていて、「ああ、学校ものもアリかも」と思ってしまったのは秘密だ。
新は自分の性欲から目を背けるのをやめた。実際にはすっぱりやめるのは難しく、目を背けようとしている自分を強く意識することからはじめた。相手の衝動に期待できないぶん、新が積極的に自分の希望を伝えていかなければならない。恥ずかしがっている場合ではなかった。
何より、アーサーは絶対に茶化したり、馬鹿にしたりしない。それがわかっているから、怖がる要素も、恥ずかしがる要素もどこにもない。新の言うことに真面目に耳を傾け、疑問に思ったことはこちらが面食らうほど率直にぶつけてくる。
「あまり長い前戯は不要ではないですか?このフェーズが僕にはもっとも理解しがたい。だいたい、バリエーションが多すぎませんか」
「ええーと……それはごもっともなんですが、前戯を軽くみると痛い目にあうというか、実際に痛いというか……運動する前に準備体操しないと、筋肉が切れたりするでしょう。あれと同じというか」
「痛い、というのは?」
「女の人からすると、入ったところがひりひりして、正直気持ちいいどころじゃないです」
「辛いですか?」
「つらい」
「……新は、困ったときは敬語になる傾向がありますね」
「いまそれ言う?」
「すみません、でも」
アーサーは、新の目をじっと覗き込む。
「言いづらかったということがこれでわかりました。教えてくれて、ありがとうございます」
その言葉に、思いがけず胸を打たれた。本来別の生き物であるはずの勤勉な恋人に対して、この真摯さに応えよう、という決意がめばえる。
店の閉め作業まで終えると、どんなに早くても零時をまわる。働いていたままの格好の上にそのままボアフリースのジャケットを着込み、首元をマフラーでぐるぐる巻きにして二階から降りると、コートの襟に顔を埋めたアーサーが待っていた。
「あれ、珍しい。どうしたの」
「明日は新もお休みでしょう。僕が迎えに来れば、そのぶん一緒にいられます」
「……ありがとう」
べたべたな台詞にぐっと喉を詰まらせつつ、それでも普通に返せるようになるにはずいぶん時間がかかった。照れくささを抑えながら差し出された手をとると、新の手は大きなてのひらにすっぽり覆われてしまう。
なんとなく顔を見合わせると、背後からピイッと指笛が聞こえた。
「あついねえ」
「げっ、大将!」
「げ、とはなんだ、失礼しちゃうな」
口ではそう言うが、大将はにやにやと嬉しそうで、孫の写真を見せられたときとそっくり同じ顔をしていた。
「仲良くやってるようでよかったよ。俺も背中押した手前、責任感じちゃってさあ」
盆正月くらいしか会いに行かない実父に次いで、大将も新にとっては父親のようなものだ。彼も同じ感覚らしく、「しかし、カオちゃんも言ってたけど、娘をとられたみたいで寂しいもんだな」と小さく付け足した。
「俺は戸締まりみて帰るから、ふたりとも、気をつけて帰れよ」
「はあい」
「おやすみなさい」
「オウ、おやすみ」
行きましょう、と促されて、新はすこし感傷的になりながら足並みを揃えた。
「仲良くやってる、って、大将にもそう見えるんだね」
「それはそうでしょう。僕たちはもう立派な恋人ですよ」
立派な、という言い方がおかしくて、新は笑いながら繋いだ手を振り回す。
「アーサーと並んで、ちゃんと恋人に見えるっていうのがうれしい」
「それを言うなら僕でしょう。ちゃんと地球人の恋人に見えているのが、僕はとても嬉しい。それに」
瞳の奥の紫が、吐き出す息の白さの向こうで妖しく揺れる。
「これからもっと仲良くなる予定ですからね」
「なっ」
「さあ、早く帰りましょう」
急に足取りを早めたアーサーに「はやいはやい」と文句をつけたら抱きかかえられそうになったので、新は全力で抵抗して下ろしてもらった。
「どうしたの、ほんとに」
少々当惑して問いかける新に、アーサーはやけに晴れ晴れとした様子で答える。
「新、今日こそチャレンジしますよ」
「なにを」
「ホンバンです」
その四文字を「本番」と変換するのに一拍、さらにその意味を悟るのに一拍、たっぷりひと呼吸おいてから、新は眦を釣り上げた。
「こんなところで何言い出すのよ!」
その肩にめいっぱい拳を打ち付けてもアーサーはびくともせず、楽しげに笑う声だけが夜道に響いた。
「どうですか、アラタ、気持ちいいですか」
「もう、聞かなくていいから……好きにして……」
アーサーにじっくりと愛でられて、新はもう息も絶え絶えのありさまだった。
「僕は初めてですから、確認しながら進めていかないと」
「その、人体実験みたいな言い方……」
「いやですか?」
「いや」
「気をつけます」
はじめ、アーサーはお互いの服を脱がせ合うとこから始めたがったが、新は全身で拒否した。逃げ回った末、もうあとがないとわかると自ら脱ぎだす潔さで、面食らったアーサーは呆れて笑うしかなかった。
「アラタ、ムードというものも一緒に学んだはずですが」
「ほんとに勘弁して、恥ずかしすぎる」
「自分ですべて脱いでおいて、何を言ってるんです」
文句を言いつつ、アーサーも服を脱ぎ捨てた。大きな骨格にはきれいに筋肉がついていて、いつも新と同じだけ食べているはずなのに無駄なものが一切ついていない。
ベッドの上で向かい合って座って、お互いの手をとって軽くキス。そのまま引き合うように寄り添うと、風呂上がりの少し湿った肌がひたと吸いついてあたたかかった。
その感触にしばらくうっとりしていたのだが、暖房が効いているとはいえ季節は真冬。新が「いっし!」とおおきなくしゃみをしたので雰囲気はぶち壊しになり、二人で大笑いしながら、慌てて上掛けをかぶったのだった。
長く丁寧な愛撫から解放されて、すこし落ち着いた新はアーサーをまじまじと見つめた。
「おおきくなってる」
「行為の学習と並行して、分泌腺まわりも整備しました。ちゃんと反応しますよ」
相変わらず何を言ってるんだろうと思うが事実なので仕方ない。アーサーの、実は発展途上の身体事情に新もずいぶん慣れてきていた。
「よくできてるね」
「お褒めにあずかり光栄です」
「その言い方はちょっと」
「さわってみますか」
「へっ」
導かれるままに、きゅっと握ってみる。
「ほんものだ」
「そうですよ」
アーサーは新を胸のなかに抱き寄せて、こんどはうしろから指を差し入れた。
「ふぁっ」
「性欲、というのはまだよくわかりませんが、僕の手に反応してアラタが変わっていくのは、とてもたのしい」
「変態みたい」
「人間らしいということですね」
「あはは、そうね」
そのとき、おもむろに体勢を変えて新の上に重なったアーサーの目の色が深い紫に変わった。
「もっと違う顔も見たい」
先に進みます、と言うがいなや、アーサーは新の間に割って入った。いくらかもたつくかと思いきや、彼は的確に中心を探り当てる。
押し開かれていく快感に、新の喉がひゅうっとひきつった。
隙間がないくらいぎゅっと抱き締めあって、それからすこし離れて、そこからはもう、無我夢中だった。新はアーサーを求めて縋り、アーサーは新の熱を追い上げて、二人は絡み合ってバターのようになった。ぐるぐる回ってバターになる、あのちょっと不思議な面白さが、自分たちにそっくりだと新は思った。
それまでの学習の成果をすみずみまで発揮しきったころに、すこし間を置いて、それぞれの身体がびくりと震えた。深い息をついて、ぐったりと弛緩したまま、互いに顔を見合わせる。
「おつかれさま」
「これは……我を忘れますね」
荒い息の間に、笑い声がまじる。
「きもちよかったね」
「とてもよかった。それといま、大事なことが発覚しました」
「なに」
避妊のことならいまさら、と新は思ったが、アーサーの答えは予想の斜め上をいった。
「僕、とうとうほんとうの地球人になりました」
「はあ?」
あたりにたゆたっていた甘い余韻が一気に吹き飛ぶ。
「どういうこと」
「地球に定住する条件が揃ったのです。入植先において、生物が存在する場合は同型の生態と繁殖要件を満たすこと、文化や社会が発展している場合はそれに適応すること、これが二大条件でした。それをいま、アラタをパートナーに迎えたことですべてクリアしたのです」
「そういうことは、早く言いなさいよ」
「そう言われましても、条件がなんなのか、そのときになるまではわからないんですよ。僕もいま知りました」
きっと、現地の生物や社会に負担をかけないよう、情報にロックがかかっているんでしょう、とアーサーはひとり納得する。
じゃあ、と新は問いかける。
「身体が切れちゃったりしたら、もう…?」
「大丈夫です、そこは変わりません」
「え、じゃあいろんなデータベースにアクセスできるっていうのも」
「できます、変わりません」
新は思わず突っ込んだ。
「何も変わらないじゃない」
「そうです、変わりません。ずっとアラタのそばにいます」
はあ、そうですか、と嬉しいよりもいまいち実感が湧かず、新はとりあえず体ごとアーサーのほうを向いた。
「まあ、いままでどおりなら、いっか」
アーサーは満足げに微笑んだ。
「アラタが一緒にいてくれれば、僕は地球で生きていけます」
「うん、一緒にいる」
そう言って、新はアーサーの手を包んだ。
「いずれ、結婚もしたいです」
「うちの家族にも会ってもらわなきゃ。あ、でもアーサーの家のことはなんて言おう。家、ないよね」
「捏造します。造作もありません」
アーサーはにやりと笑って断言する。その言い方におぼえがあって、新はおかしくなった。
「変なこと覚えてるね」
「覚えてますよ、アラタとのことなら」
「まだ三歳だけどね」
「これから伸び盛りです」
頭を寄せ合って、くつくつ笑い合う。
地球どころか、気の遠くなるほど広い宇宙の中から、アーサーは新を見つけた。それだけでもう無敵だ。新はもう一度アーサーの胸に飛び込んで、力いっぱいぎゅうっと抱き締めた。